2019年7月31日水曜日

今月の本棚-132(2019年7月分)



<今月読んだ本>
1)緋い空の下で(上、下)(マーク・サリヴァン);扶桑社(文庫)
2)脳の意識 機械の意識(渡辺正峰);中央公論新社(新書)
3)マネーの魔術史(野口悠紀雄);新潮社
4)骸骨巡礼(養老孟司):新潮社(文庫)

<愚評昧説>
1)緋い空の下で
-米冒険作家が10年におよぶ綿密な調査に基づいて描く、知られざるイタリア戦線秘話-

私にはイタリア人の友人が二人いる。いずれもミラノとヴェネツィアを結ぶ鉄道沿線の住人。一人(MC)はブレーシアと言うミラノから1時間ほど東に行った工業都市(銃器メーカーベレッタなどが在る)の南郊マネルビオで夫人と二人暮らし。彼はミラノの大学で学んだから、まあミラノはホームタウンと言ったところである。もう一人(SL)はさらに東に進みヴェローナとパドヴァの中間点、古い城郭都市であるヴィチェンツァの北郊サンドリーゴの住民、娘たちは独立しここも夫婦だけの半引退生活(“北部同盟”政治活動だけは現役)だ。我々三人(MCSL間に友人関係は無い)を結ぶ糸は石油とITである。私が最初に二人に出会ったのは1970年代末から80年代初め頃、場所は米国である。その後二人とも来日(MCは頻繁に)もして交流を続けていた。200810月彼らを訪ねて初のイタリア旅行をした。訪伊を連絡すると二人とも「自宅に泊まれよ」と言ってくれたが、一応ミラノとヴィチェンツァに宿を取りそれぞれの家も訪問できるようスケジュールを組んで出かけた(結局MC宅には一泊する結果になったが)。この時彼らの案内で北イタリア地方について実地で学ぶ機会を得た。特に、イタリア統一戦争(1859年;フランス・イタリア対オーストリア・ハンガリー)や第一次大戦(イタリア対オーストリア)の戦場が直ぐ近く在り、SLの曽祖父など統一戦争ではオーストリア軍の兵士だったし(つまりSL父祖の地は現在地よりはるか北に在り当時はオーストリア領)、祖父は第一次世界大戦時イタリア軍兵士として出征、郷里近くで戦死している。こんな話を強い蒸留酒で有名なグラッパの町の峩々たる山並みを前にする見晴らし台でSLから聞かされた(因みに、連合軍はこのグラッパもドイツ進駐軍の退路を断つために空爆している)。MCにしても遠い祖先は石工(訳せば“城石”が姓名)でスイス方面からやってきたとのことであった。確かにミラノの北はスイスに接しており、ミラノから日帰りできる有名はコモ湖が国境を成している(コモ湖そのものはイタリア領)。本書は、ミラノを中心に、その国境地帯を舞台にした第二次世界大戦中の軍事サスペンスである。彼らのお蔭で土地勘と歴史観が備わっていたので、イタリア語に精通した学友が訪伊前にくれたイタリア製道路地図を参照しながら、上下2700頁強を一気に読んだ。
著者は邦訳も何冊かある米冒険小説作家。しかし、本書は著者まえがきにあるように、長期かつ綿密な現地調査活動(約10年)に基づく限りなくノンフィクションに近い作品で、他の作品とは力の入れ方が違ったようだ。2017年のAmazonベストセラー第1位(150万部)も肯ける力作である(映画化も進行中)。
話の始まりは19436月、既にシチリア島には連合軍が上陸、対抗するドイツ軍の進駐も始まり、連合軍による主要都市への爆撃が行われている。国内は厭戦気分が広がり、反ファシストパルチザンも各地で活発な活動を展開している。ミラノでカバン店を営むレッラ家の長男、ピノは間もなく18歳、「アメリカ軍がやってくればジャズが楽しめる」と連合軍の北上を心待ちにするような高校生。このピノが物語の主人公である。ミラノ爆撃疎開のために、中学生時代まで毎年夏季休暇中長期滞在したコモ湖に近い山岳地帯にある修道院へ弟とともに送られる。修道院の隠れた役割は、この山岳地帯を抜けスイスに至る在伊ユダヤ人救出活動である。神父はいくつかの登攀路を熟知し体力もあるピノにこの仕事を任す。本書の前半はこの逃避行がテーマ。妊婦あり、子供連れあり、高齢者あり、パルチザンを騙る強盗団あり、これだけで充分一冊の本になる。しかし、この山村での体験が後半に絶妙につながっていく。村に居た、戦後F1レーサーとして活躍するアルベルト・アスカリと友人となり、彼に高度自動車運転技術を確り教えてもらったのだ。
ユダヤ人脱出に遣り甲斐を感じていたピノに、父からミラノに戻るよう言ってくる。兵役年齢(満18歳)に達するとファシスト軍に徴兵されロシア戦線に送られる、それよりましなドイツのトート機関(土木・建設部隊;軍ではない)に志願しろとの話。当然反発するが、当時のイタリア社会では父の意思に逆らえない。部隊勤務中アルベルトに学んだ運転技術を買われ、在伊ドイツ軍の軍需物資調達総責任者(トート機関と関わりが深い)でかつケッセリング総司令官に次ぐ地位にある少将の専属運転手となる。ここからピノは叔父を介してパルチザンにドイツ軍情報(物資の動き、陣地の構築状態さらには実権を失い愛人とガルダ湖畔に蟄居するムッソリーの言動など)を流していく。事情を知らない友人知人からナチのシンパ見做され絶交、パルチザンに襲われたりもする。一方でゲシュタポ(秘密警察)やSS(親衛隊)も疑惑の目を向けてくる。このスパイ活動が後半のテーマ。
最後はオーストリアへ向け敗走するドイツ軍や少将とのスリリングなカーチェース。SLが案内してくれたサンドリーゴ北部の山岳ドライブを紙上再体験した(ブレーキの過熱を恐れ、写真撮影などにかこつけて、何度も停車してもらった)。
2006年著者は79歳になっていたピノと初めて対面、その後4回取材している。ムッソリーニ、アスカリ、少将、皆実在の人物で取材時は無論故人だが、それぞれの後日談(エピローグ)も面白い。映画が上映されたら是非観に行きたい。

2)脳の意識 機械の意識
-論理や情緒の背後に潜む“意識”研究の最前線。意識を持つAIは出現するか?-

高校時代物理を学んでいる時、素粒子から天体まで広がるその世界を知り、「自分が居る所は、もしかすると素粒子の中の一部かも知れない」と思ったことがある。後年、人間を微小化して体内患部治療に取り組む「ミクロ決死圏」と題するSF映画を観て「オレの思いつきもまんざら珍奇なものではなかったのだ」と一人悦に入ったりした。この延長線に、目の前に在る現実が「もしかすると、脳の中で作り上げられた仮想空間ではないか?」との夢想があり、特に嫌なことに直面した時「そうあって欲しい」の願いになっていく。そしてその“夢”である。現金・クレジットカード・身分証明証が詰まった財布を奪われたりどこかに置き忘れたりする場面が出現、苦悶する内に「これが夢だったらいいのに」の思いに駆られ、目が覚めてホッとする、こんなことを何度か体験している。今そこに在る現実は本当に実物なのだろうか?では夢に見る世界は何なのだろう?いずれも人間の“意識”について考えさせられる課題なのだ。究極のAIはこの“意識”を具備することになるのだろうか?脳神経科学の最前線はこの“意識”研究にある。本書はその現況を解説する内容だ。
「彼は彼女を意識している」=特別な思いで見ている。「彼はチョッと自意識過剰だ」=自分自身の事柄を過剰に意識する。“意識”と言う言葉は日常よく口にするが、それほど深く考えたことが無い。しかし、脳神経科学では、論理や情緒を(背後で?)操る重要な脳の機能と位置付けられている。似たような用語に“認知”があるが、私が本書から理解する限り、少し“手前にある”感を持った。つまり、現実世界-感覚世界(五感)-認知世界(論理・情緒・心理)-意識世界(かなり哲学的な色彩を帯びる)の順である。ただ、感覚も認知も意識と全く別世界として区別されるわけではなく、意識の一部と考えられ、本書では特に動物実験など通じて“感覚意識体験”から意識の深奥部に迫っていく。究極はデカルトの「我思う、ゆえに我あり」。意識は“我”であり、自身の存在について想いを巡らせたとき、“我”は間違いなく存在する、と。
では意識は脳の中でどう形成されていくのか?二つの仮説を提示して、これを著者の研究をベースに論考する。一つはデイヴィッド・チャーマーズ(豪;哲学者)の「あらゆる情報が意識を生む」、もう一つはジュリオ・トノーニ(伊/米;神経科学者)の「統合された特殊な状態にある情報のみが意識を生む」。第一の仮説は意識研究に大きなインパクトを与えたが、“大風呂敷”と論難され、第二の仮説を好む研究者が多いようだ。しかし、著者は「情報を意識の自然則対象にすること自体に並々ならぬ疑問を感じている」と両説に組しない。要するに意識研究は未だ“リンゴが木から落ちる以前の状態”にあるのだと。
しかし、マウスやサルなどに依る動物実験、戦争などに依る脳機能の一部欠損者観察を通じ、物質と(ある種の)電気的・化学的反応の集合体に過ぎない脳が、意識を形成していくメカニズム解明が着々と進んでいっていることも種々の視点から解説する。その一つが、生体実験を行えない人間の脳における意識研究である。本書の“機械の意識”はこのためにIT利用がどこまで達しており、何を期待しているか紹介するもので、人間とAIの単純比較ではなく、あくまでも脳神経科学の支援ツールとしての視点である。従って、割かれる紙数は圧倒的に“脳の意識”である。とは言っても人間の意識がいつの日か機械に移植可能になると著者は信じており、そこで第二の人生が送れる可能性はほぼ間違いないとしている。
脳や神経に関する(素人から見ると)詳細な説明、それも先端研究なので、子供の時から生物(人体を含む)に興味を持てない私にとってはて、読み続けるのに悪戦苦闘、どこまで理解できたのか自信は無い(新書として適切か?)。ただ、最新AIでもまだまだ人間代替できる機能はごく一部(これだけでも仕事を奪われる人は出てくるのは確かだが)であることが本書から読み取れたことは収穫であった。
著者の専門は脳神経科学(東大大学院准教授)、工学部出身であることにこの分野の斬新性を感じた。

3)マネーの魔術史
いつの時代も財政破綻は為政者のいかさまで踏み倒されてきた。異次元緩和は現代の改鋳だ!-

日本人の書いた小説をほとんど読まない私だが、塩野七生の「ローマ人の物語」(文庫本全43巻+別冊)は読破した。本人が書いているように“ローマ人”は作者の思い入れの強い人物(例えばカエサル)にいささか傾注し過ぎており、厳密な歴史書としては多々問題があるようだが、往時と今日の社会を比較し、そこから学ぶことの多い本であった。その一つが貨幣改鋳(改悪)である。文庫本の表紙はすべてローマ時代の貨幣、趣味で収集したものであるようだが、改鋳問題がしばしば乱れた帝国の統治と結びつけられて物語られるところを見ると、著者の大きな関心事であることがうかがえる。(戦争や愚民政策による)財政支出の増加→その破綻→インフレーション→デノミネーション(改鋳から紙幣増発まで)→更なるインフレ→現物を持つ者と持たぬ者の格差拡大→通貨経済の崩壊→社会革命(覇権の交代、革命、世直し)は、我々が辿ってきた、マネーを核とする繰り返す歴史なのである。塩野と本書の著者野口は奇しくも日比谷高校の先輩・後輩、どこかで示し合わせたのであろうか、本書も改鋳問題から筆が進められ、異次元緩和(つまるところ現代の改鋳行為)に疑念を投げかけて終わる。こと統治とマネーに関して、二人は同意見と読んだ。
物々交換から始まった経済活動は、利便性の高い硬貨(金属以外もあった)を導入することで規模を拡大していく。しかし、大量取引では重さもバカにならないし、遠隔地間の取引では安全も含め現実的でない。そこで各種の信用状による取引が起こってくる。さらにその信用状の譲渡が可能になる。ここで存在感を高めてくるのが両替商(のちの銀行)、個々の両替商が発行する信用状が紙幣に転じていく。信用の裏付けは発行者・仲介者の資産(貴金属など)との兌換性である。こうして紙幣が普及していくが兌換量には限度があり、ニクソンショックでドルの金への兌換が終わると世界は完全に不換通貨の時代に入り、今日のような絶対的な信用基準の無いマネー経済へ変じていく。これが大雑把に見たマネーの歴史である。そして、各種マネー(信用状を含む)はその発行者(両替商や特許授与者(為政者))の意図で操られ、行き詰まりが生ずると、必ず発行者が有利になるような種々の“魔術”で破たん処理が行われる、と言うのが本書の論旨である。この各種魔術の事例(多くは失敗例とその後始末)を歴史的に辿りながら、金融事情に疎い読者に魔術のからくりを理解させ、現代の金融・財政問題へ注意を喚起するのが本書の狙いである。とにかく本格的なエコノミストの論文とは一味違い、読みやすいし面白い。それは個々のテーマが「週刊新潮」および同じ出版社の「フォーサイト」の連載記事であり、それを一冊にをまとめたとろからきている。
例えば兌換性。金銀を多量に保持していれば為政者・保有者や国の信用が増し、経済活動が活発化し、その国は栄えていくのか?16世紀スペインはインカ帝国を滅ぼし、ポトシ鉱山を手にして大量の銀がスペインにもたらされる。あまりの量の多さに銀の価格が下落する(価値が半分になる)。加えてスペイン王はこれを無敵艦隊の建設に投入、結果は英艦隊に敗れ、スペインの興隆期はここで終わる。銀に絶対的な価値があると信じていたスペイン人の無知ゆえである。対する英国はカリブ海でスペイン船を襲い、大量の金銀を手にすると、それをエリザベス女王に献上、これが東インド会社経営に投資され、大英帝国成立の礎となる。つまり金銀と言えども、使い方次第で価値は変わる。この話題に限らず戦費調達には、ローマ帝国、ナポレオン戦争、米国の独立戦争および南北戦争から日清・日露戦争、第2次世界大戦まで、改鋳、紙幣増刷、貴金属回収、戦時国債の押し売り、軍票の乱発など諸々のマネー政策が採られ、戦勝国の経済さえ危機的な情勢をもたらしたことが縷々語られる。
中央銀行の設立、権威確立も一筋縄ではいかない。米国は独立戦争後、一時合衆国銀行が設立されるが20年後は廃止され、主力銀行・州の妥協の産物としてFRB(連邦準備制度;理事会と地方連邦銀行)が発足するものの中央銀行はいまだない(実質的には最大規模のNY連銀が中央銀行の役割を果たしているが)。
以上の他にも、金本位制の変遷、共産主義下の通貨政策(計画経済の下では本来通貨は不要なはずだが、紙幣増刷でインフレ到来、闇経済は物々交換へ)、江戸時代の金融政策(金融緩和と緊縮財政の繰り返し、改鋳)、繰り返すバブル経済と経済危機、そして仮想通貨(暗号通過)出現と中央銀行の存在意義、と興味深い話が満載。マネーと言うと狭義には貨幣や紙幣になるが、ここではその質と量さらには使い方、財政・金融・通商政策にまでおよんで解説されるので、その点でも内容を身近に引き寄せることができた。
根底にある主張は、「異次元緩和は現代の改鋳であり、やがて破綻し(インフレ到来)、そのツケはマネーの発行者(政府や中央銀行)ではなく利用者に廻ってくる(インフレになれば国にとって国債償還の負担は軽くなり、一般庶民の金融資産は価値を減ずる);つまり借金の踏み倒し」と言うことである。いつそれは来るのか?どう備えればいいのか?そこまでは記されていない。かすかに期待感を持たせるのは、国債頼りの財政や紙幣乱刷に走る中央銀行の支配を受けない仮想通貨だが「現在は投機の対象に過ぎない」と懸念を示す。本としては面白く読めたが、子・孫の代まで考えると将来が暗く見えてしまった。
著者紹介は不要と思うが「超整理法」以来のファンの一人なので蛇足を少し。理系出身(東大応用物理学科物理工学専攻)で修士時代に上級公務員試験の行政職(技官ではない)に合格、大蔵省に奉職、イェール大学で経済学博士号取得後大学に転じ、東大教授、一橋大学名誉教授、エコノミスト。我が国における金融工学の先駆者かつ泰斗(東工大今野浩名誉教授“工学部ヒラノ教授”と金融工学研究機構設立の先陣争いを演じた。二人は高校・大学の同期生でもある)。早くから公開数理情報をベースに、経済・財政・金融の分析に努め、40年近く前から「我が国財政問題のカギは公共投資などではなく社会福祉関連である」「福祉政策を見据えた税制改革は必至である」「過度に製造業に依存する経済政策は誤りである」「もっとIT活用に注力すべき」「円安志向は決して将来にとって好ましくない」などと警告を発し続けてきた。その主張は長期的に見るとほぼ当たっているが、目先の票が頼りの政治家は見て見ぬふりを決め込んでいる。アングロサクソン資本主義信奉者の竹中平蔵あたりは使えても、独自理論を展開するこの人を御すのは並みの政治家では無理。

4)骸骨巡礼
-解剖学者の歴史紀行と思ったが、死生観や身体論、バカの壁が理解を阻む。同じ壁でも骸骨壁写真は一見の価値-

梅雨明けが遅れすっきりしない日々が続いるが学校は先週から夏休みに入っている。小学生時代(昭和20年代前半;1945年~51年)、日本全体がまだ貧しく家族旅行など考えられない状況だったが、それでも子供にとって1年を通じて一番楽しい時期だった。チョッと鬱陶しいのは宿題。日記、作文、図画・工作、自由研究などが課せられた。当時は文章を書くのが全くの苦手、日記と作文は手抜きの見本のようなもの。一方で得意だったのは、工作と社会科関連の自由研究。廃材で作った客船模型、朝鮮戦争の時間的経緯を描いた地図と解説(新聞のコピーに過ぎないのだが)、今でも想い出に残る作品で、夏休み明けの作品展で高い評価を得た。しかし、密かに羨んだのは菓子箱の上部をセロファンで覆った、見事な昆虫採集の作品だった。この頃から生物には全く興味がなかったから「こんな自由研究もあるんだ!」とその発想にすっかり感心してしまった。だからと言って、その後生物関係に興味が転ずることはなかった。長じて大学受験時代、同じ理系でも農学・医学関連分野は対象外、今に至るもこの方面への関心は希薄で、医学関係者の著した本で手にするのは、社会(例えば医療費)や数理(統計)あるいはロボットやAIと深くかかわるものに限られている。では何故著名な解剖学者の作品を読むことになったのか?
大ベストセラー「バカの壁」(400万部超)の著者として、以前から名前と略歴(東大医学部教授、解剖学専攻)は知っていたが一冊も読んだことは無かった。このところ旅に関する面白い本に巡り合えず、その種の本に飢えていた。「人体に興味はないが、どうやら欧州旅行記らしい」「そういえばカタコンベと呼ばれる地下墓所が欧州各地に在るが、一度も訪れたことが無い」「解剖学者がそれを案内してくれるなら、唯の観光ガイドとは異なり、何か面白い知識が得られるのではないか」こんなところが手に取った動機である。出版社側の意図も概ね同じと、73葉(48頁)にわたるカラー写真から推察できる。しかし、中身はそう単純なものではなかった。墓や棺、骸骨に関する話は脇役で、死生観を始め、宗教論、文化・文明論、歴史観が主役を務める内容なのだ。しかもその展開が理解し難(著者と私の間にバカの壁が在る)。著者すら文中で「一体この話は何だっけ?」と自問するほどである。
本書執筆の出発点は、子供の時からの欧州観「理性的かつ明晰、科学と言う文化の源」に対する問い直しである。この欧州観に疑念を持ち始めるのは解剖学を始めてから。遺骨の扱い方や墓に対する感覚が明らかに日本とは異なり、「理性的で明るい」欧州が陰影を帯びたものに見えてくる。そし根元に双方の身体観(身体にたいする思想)の違い(地理的のみならず時間的にも)を著者は感じるのだ。例えば、一時期欧州には(権力者や有名人の)心臓を保存する習慣があった(ここに霊が宿ると考える)。あるいは、日本人の身体観を歴史的に調べていくと、乱世では身体が前に出、平和な時には背景に退く傾向があると。どうも肉体重視か精神(霊的なところも含め)中心か、と言うようなことのようだが、さらに進んだ分かりやすい解説は無い。
墓地・墓所・納骨堂を訪れるたびに、この種の問答を繰り返すので、紀行文的なものに対する期待感は早々に裏切られてしまった(写真だけは当に観光ガイドブックだ。数千の頭蓋骨で埋め尽くされた教会には圧倒される。確かに日本人には発想すらできない)。独自な仮説・思考・論考と抽象的な自問自答の筆致についていくのが大変なのである。
ただ、イタリアの大学は医学に関する歴史が古く、ボローニャ大学やフィレンツェ大学付設の博物館の紹介(例えば、フィレンツェのスペコラ博物館にある往時の人体模型(蝋人形;ムラージュ)の写真;この職人芸は凄い!フィレンツェの工房では解剖が必須だった。レオナルド・ダヴィンチは40体ほどやっている。これは美術解剖学へと発展し、現在東京芸大にその講座があり、古くは森鴎外、著者も一時そこで講じていた時代がある)などはそれなりに科学史の一端を知ると言う点において、得るところはあった。また、写真(巻頭)とその解説(巻末)だけでも値段(710円)の価値はある。
本書の前編としてチェコ、オーストリアなど中欧を訪れた「身体巡礼」が既刊。今回はイタリアを中心にポルトガル、フランス(パリのみ)を取り上げ南欧編の位置付けになる。「バカの壁」は口述筆記のようだが、本書も同様の手法が採られたのではないかと推察する。多分今後この人の著作を手にとることはないだろう。<2)脳の意識 機械の意識>同様本書を読み通すのには疲れた!

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