2025年8月12日火曜日

満洲回想旅行(11)


11.長春へ


瀋陽駅を定刻(1553)に出発した高鉄は西日の中を北上する。座席はD席、進行方向左の通路側。広大で真っ平らな畑地の中に風力発電塔が現われる程度で、あとは何も無い。作物は不明だが、遙か彼方まで続く緑の畑地の広さに圧倒される。1946年夏、今回とは逆に、長春(新京)から瀋陽(奉天)に向かった記憶を思い起こそうとするが、風景はまったく浮かんでこない。無蓋貨車で編成された列車は何度も停車を繰り返し、今回1時間半の移動時間に一昼夜以上要した。停車中目にしたのは線路際の低木雑木林ばかり。その都度用便をしたのは覚えている。この記憶と車窓のギャップは大きい。


今回体験した限り、高鉄の経路はほぼ在来線と並行するものの、完全に独自路線で部分的にも在来線を使うことはなかった。我が国の場合狭軌と標準軌の違いから当然だが、欧州では全線新敷設のところはめずらしいのと好対照だ。このような方針からだろう、瀋陽方面からハルビン方面に向かう我々の列車は、長春駅には入らず(線路は通じているが)、その遙か南西に在る長春西駅が下車駅となる。当然在満時代には無かった駅で、ガイドブックの市街図にも出てこない。私が引揚げの際乗車したのは南新京駅、ガイドブックに長春南駅があるから、おそらく同じ駅だろう。父の務めていた満洲自動車のオフィスと工場もこの辺りに在り、線路を隔てた西側に大きな建物は無く、畑地か荒地だったと記憶する。高鉄の長春西駅はさらに遠隔地、原野の中に出来た新駅に違いない。駅に近づくにつれ、例によって高層アパート群が現われる。新京はこんな所まで拡大しているのだ。到着は1720分、現地ガイドの艾(アイ)さん迎えてくれ、バスで今夜の夕食会場までの移動の間、長春観光の概略を説明してくれる。駅からの道路は広く、それに沿う建物もこぎれいな中層ビル、丁度帰宅ラッシュ時で渋滞が起こって、遅々として進まない。艾(アイ)さんは、あとで分かることだが、70歳を超える老人、長春生まれ・育ち、日本語は完璧だが少々声がかすれて、説明が聞き取りにくく、後席からマイクのボリュームを上げるよう求められるほどだ。しかし通過地点紹介や明日の観光案内の中で“宮廷府”という言葉が出たときには、思わず両手を挙げてしまった。おそらくこの言葉の意味を知るのは私しかいないはずだ。


宮廷府は、町のほぼ中央に位置する広大な土地に建設中だった新宮殿の呼称である。満洲帝国誕生時(1932年満洲国、1934年帝国になる)、皇帝溥儀は有力者邸宅に仮住まいしており、新宮殿建設が進められていた。しかし太平洋戦争が始まり、工事は中断、敷地の一部は我が家を含む社宅の人たちの家庭菜園になり、コンクリートむき出しの建物は、格好の子供の冒険場所だった。「アー、この人だったら、用意した質問に正確に答えてくれそうだ」の感を強くした。


渋滞の中小一時間かけて到着したところは、長春駅の近くと聞かされたが、整然と区画整理された“私の新京”とは異なり、雑然とした一帯だった。そこの百年老店「春発合飯庄」という東北料理店で夕食を摂り、ホテルへ向かった。その途上、満洲中央銀行や満洲電電のビルが在ったことからも、確かに駅近くに違いない。

ホテルでチェックインが終わったところで、添乗員のNMTさんが艾さんと引き合わせてくれた。出発前電話をもらったとき「現地ガイドと単独で話をする時間を創って欲しい」とお願いしていたからだ。ロビーでの打ち合わせで、翌朝7時半に会うことになった。

 

写真上から;瀋陽駅出発、長春市街図、春発合飯庄、艾さん(クリックすると拡大します)

 

(次回;回想の新京)

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