2023年12月31日日曜日

今月の本棚-185(2023年12月分)

 

<今月読んだ本>

1)夢の町本通り(沢木耕太郎);新潮社

2)国家は巨大ITに勝てるのか(小林泰明)新潮社(新書)

3)地中の星(門井慶喜);新潮社(文庫)

4)戦争とラジオ(大森淳郎);NHK出版

5)日本の歴史(山本博文・五百旗頭薫監修);角川書店(まんが学習シリーズ全20巻)

6)ロシアから愛をこめて(金平茂樹);集英社(文庫)

 

<愚評昧説>

1)夢の町本通り

-ノンフィクション作家が描く理想の町、欠かせないのは書店と書物。36編から成る書籍エッセイ-

 


芯はあるがアクのない端正な筆致に惹かれ沢木ノンフィクション作品ファンとなって久しい。題名も、含蓄はあるが“売らんかな”の下心を感じさせず、好感の持てるものが多い。本書もその点で不満があるわけではないが、「下町舞台の小説みたいだな~」とチョッと違和感を持った。どうやら本人もいつもと違うことを意識していたようで、まえがきでその由来を説明する。納得!「私もそんな町に住んでみたいな」となった。

著者の少年時代の住まいは馬込(大田区)だったが、作家となってからの住居は桜新町、仕事場は三軒茶屋や経堂(いずれも世田谷区)に在った。関東大震災以降畑地が宅地化され所で、比較的教育レベルの高いサラリーマンが住民の主体となり、次第に開けていった土地である。都心部と異なり商店街は駅周辺に限られ、駅から本通りが一本延びていくような町の構成である。そこには八百屋・魚屋・精肉店・総菜屋・酒屋・雑貨屋・洋品店・ソバ屋や洋食店・居酒屋が並び、クルマの往来などはほとんどない、言わば歩行者天国。そして文化的な香りを発する唯一の場所は、勤め帰りや休日に立ち寄る書店、時には古書店。半世紀前の中央線・京王線・小田急・玉電(現田園都市線)・東横線沿線の区部を彷彿させる情景だ。著者はここで書店・古書店の佇まいや品揃えに蘊蓄を傾け、好みの“夢の町本通り”を作り上げ、36編の書籍エッセイへと読者を誘う。

初稿掲載先は全く記されていないものの、1974年(1編)から本年(1編)に至る半世紀の著者の書物に関するエッセイ大全である。多いのは1990年代から2010年代に書かれたもの(40歳代から60歳代)で、脂ののった時期である。長さもまちまちで頁数にして2~36と幅がある。これを“本を買う”、“本を読む”、“本を語る”、“本を編む”、“本を売る”の5部構成に整理する。本職の“本を書く”はないものの、それはすべての部に埋め込まれている。だからと言ってここで取り上げられる本がすべて書くためのものではない。

“本を買う”では様々な購入動機・購入先が主体となるが、ここにはまったく買わない時期や理由が語られるほか、書店の好みや行きつけの店の本棚の構成におよんで、言わば本書の前菜のとなる。多彩で興味深いのはメインディッシュの“本を読む”の部、380頁の内1/3弱の紙数がここに割かれ、写真集・伝記・冒険談から訳本・時代小説、国際関係・芸能やスポーツのノンフィクション、はては「まえがき」や「あとがき」まで約40冊が俎上にあげられ料理される。最も力を注がれるのはヘヴィー級チャンピオンのモハメッド・アリを取り上げた「カリスマ」(訳本)、ここに26頁が費やされ、これだけで原著を読んだ気にさせる。“本を語る”は本と映画の関係あるいは翻訳、新作の構想づくりや執筆過程、書評など。三島由紀夫が話題の海外作品を「ただ面白いだけ」と評したことに対する沢木の考えを披歴したりする。“本を編む”で圧倒されたのは新潮社「日本文学全集」の1巻「山本周五郎」解説を依頼され、「山本周五郎全集」全38巻を完読し“山本周五郎論”をまとめ上げる話である。著者の生真面目な人柄を象徴するような編み方にただただ感心するばかりだった。“本を売る”は2話から成る。第1話は作家として駆け出し時代(1973年)、日本読書新聞社から書店員をしばらく務めそのルポルタージュを書くことを提案されチャレンジする。勤務先は紀伊国屋梅田店。月間売上高3億円、入店者1日約4万人の巨大店舗。店頭販売見習いから初めてやがて仕入れまでを経験、書店員の奥の深さを教えてくれる。第2話は、膨大な蔵書の倉庫保管料が負担になり、古書店に引き取ってもらう(商品価値のあるものは有料で)ことになる。そこで登場するのが“本を買う”で詳しく紹介される経堂の古書店。こうして“買う”から始まった夢の町本通り散策は “売る”で輪(話)を閉じる。

読んでみたい作品が多々登場する。いくつかネットで当たってみたが古本ばかり、リアル古書店が身近になくなっていくことの寂しさを思い知らされた一冊でもあった。

 

2)国家は巨大ITに勝てるのか

-突出した売上高・シェアー・利用者数、今や国家を超越する力を持つビッグテックを簡潔に分析する-

 


このブログのプラットフォームはGoogleのブロガー。インターネットへの接続はGoogle Chrome。検索も90%以上Googleから入る。最初に持ったPCはAppleのMacSE、次もMacだった。家人が日常使っているのはiPad。SNSは専らFace Book(現Meta、FBと略す)を利用、50人近くの友達の動向が分かる。年間80冊近い書籍購入の大部分はAmazonからだ。おまけにこの記事を書いているのはWindows上で動くWord、つまりMicrosoft環境下ということになる。今やGAFAM無しでは片時も過ごせないのが、私の日々である。格別ITヘヴィー・ユーザーでない私でもこんな状態だから、企業や国家経営におけるGAFAMの存在は広範で複雑、予期せぬ問題を種々派生しつつあり、対応を誤ればその支配下に置かれる危険さえある。本書は、この巨大ITと国家の関係を現在進行形で多面的に考察し、技術偏重に陥らず分かり易く解説するものである。

著者は1977年生れ、2005年に読売新聞社入社、主に経済部に属し、ニューヨーク特派員も務め、特に最近7年日米のIT分野取材活動に従事、最新事情が本書に反映されている。

巨大ITとして詳しく解説されるのはGAFAの4社。Microsoftはこれらとの関係で登場、イーロン・マスク買収で話題のTwitter(現X)に一章が割かれているものの、“言論の自由”に焦点を絞り込んでおり、同列で論じられてはいない。

先ず売上高(2022年度)でGAFAの巨大さを示すと:アマゾン;約67兆円(日本3.2兆円)、アップル;約51兆円、グーグル;約37兆円、メタ;約15兆円。因みに我が国小売業最高はセブン&アイ;約11兆円、商社トップの三菱商事約21兆円。アマゾンの大きさがこれらとの比較からうかがえる。個々の強みを見ていくと、アマゾンの米ネット通販市場でのシェアーは40%、グーグル各分野での全世界シェアーは、検索90%、ウエブブラウザー(クローム)60%、スマフォOS(アンドロイド)70%、アップルのiPhone全世界所有者数約10億人、FB全世界利用者数は38億人。その寡占力・絶対数が国家の力がおよばぬところに達しており、“第5の権力”(三権に次ぐ第4はメディア)との懸念もうなずける。

この懸念払しょくのため米政府(特に司法省、連邦取引委員会(FTC))・議会が挑む武器は反トラスト法(独禁法)だが、これが目論見通りに機能しないのが実情。本書の大部は独禁法をめぐる政府・議会対巨大ITの対決解説に割かれる。先ず、独禁法の根幹思想に“消費者の利益を害するか否か”があるのだが、消費者の大多数は実害を感じていないので反巨大ITの声に限界がある。次いで、米政府・国民の間でIT産業を「ナショナル・チャンピョン」と見做す傾向が高まっている(対中国、さらには対EU)。そして大きいのが彼らの政治力だ。ロビー活動・大統領選における候補者支援に莫大なカネをつぎ込み、政府との人材交流に励む。例えば、グーグルには司法省反トラスト部門トップがロビイストとして雇用されているし、オバマ政権時グーグルから政府諮問委員等に就いたのは約30名、政府からグーグルに移ったのは約20名。対中関税で反目し合っていたトランプとアップルもジョブスの後継者ティム・クックGEOのトップ・ロビー活動で和解に至っている。事態によっては政府と戦うことも辞せず、超一流弁護士や学者を動員、訴訟合戦を仕掛ける。また、訴訟案件は総じて時間がかかり、環境変化の速いITでは判決が出た時には実効が失せていることもある。

独禁法以外の問題は、政治そのものへの影響;2016年大統領選(トランプ対ヒラリー)におけるFBデータの流用。プライバシー問題;スマフォOS(アップル、グーグル)に組み込まれた個人情報利用、暗号資産問題;FBが立ち上げたリブラ(仮想通貨)に対する国際金融マフィア(各国中央銀行)による強力な阻止活動、などが取り上げられている。

日本の事例も2021年成立の「ディジタルプラットフォーム取引透明化法」を中心に解説されるが、米国ほど対決姿勢は見えてこない。一方でアップル日本法人の“政務部長”は元総務官僚、彼等は着々と手を打っているのだ。

全体として政府が押しまくられている印象だが、それでも著者は「巨大ITを牽制できるのはやはり国家だけだ」とし、10年後のGAFA生存確率を予測して見せる。グーグル70%、アップル90%、メタ(FB)50%、アマゾン90%。マイクロソフトはビル・ゲイツの後任スティーブ・バルマーの時代官僚化が進み携帯分野で遅れを取ったが、最近オープンAI社(生成AIチャットGPTで話題)を取り込んだことで、逆転の可能性有としている。

米国に限定されるが、関係者への直接取材や政府・議会の議事録・資料に基づく情報が核となっており、内容に信頼がおける。一方で業界三国(四国?)志的な筆致を楽しむこともできる。

 

3)地中の星

-我が国地下鉄生みの親早川徳次を直木賞作家が描く伝記小説。都心交通の屋台骨も上野―浅草間2.1kmから始まった-

 


私の通っていた小学校は台東区立黒門小学校、上野広小路の交差点から南西へ100mも行かない近さだ。交差点を通る都電は中央通りに3路線(1番、24番、30番)、春日通りに1路線(16番)、中央通りは営団(現東京メトロ)地下鉄(1路線ゆえ“銀座線”とは呼んでいなかった)も走っていた。都電1番は、上野駅と品川駅を結び、途中には神田-日本橋-京橋-銀座4丁目-新橋があり、大正期来最も繁華な通りを貫いていた。また、30番は向島と須田町を広小路経由で結び、この間には大正・昭和最大の歓楽街浅草があって、往時この路線も利用客が多かったようである。小学6年生時(1950年(昭和25年))~51年(昭和26年))都電は38系統あり、都心の主要な通りにはどこもその路線が通っていたが、今では荒川線(32番+27番;早稲田-王子-三ノ輪)を残すのみとなってしまった。

クルマ社会到来とは言え、それまでの利用者が自家用車やバスに乗り換えたわけではない。最大の代替手段は東京メトロ(9路線)と都営地下鉄(4路線)が担っているのだ。これらがJRや私鉄と相互乗り入れすることで、都心のみならず首都圏の膨大な人的交通量を処理している。本書はこの地下鉄を我が国に初めて導入した男の伝記小説。路線計画は、馴染みのある都電1番と30番をそのまま地下に移したようなものである。

早川徳次(のりつぐ)は1881年(明治14年)山梨県の生れ、父は村長、兄は県議を務めることになる豊かな農家の末子である。大学(法学部)卒業後南満州鉄道(満鉄、当時の総裁は後藤新平)に就職、その後鉄道院に転じ、この時現東武鉄道の創始者根津嘉一郎の知遇を得、経営難に陥っていた佐野鉄道(現東武佐野線)の再建、さらに高野山登山鉄道の経営立て直しに当たり期待に応える。しかし経営陣内の争いで退社、浪人の身となる。時に徳次36歳、既に所帯を持っているが子は無い。新規事業のアイディアを得んと大隈重信の支援を得て鉄道院嘱託となり1914年(大正3年)渡英する。ここで目を付けたのが我が国には存在しない地下鉄、市電の混雑緩和の手段としてである。

市電主要停車場での乗降者数調査を妻と二人で行うことから始め、ルートの選定、地質調査、工事方法、所要資金算出と確保、鉄道敷設認可取得、工事業者の決定に孤軍奮闘し、1920年(大正9年)8月に東京地下鉄株式会社設立にこぎつける(社長は帝国大学工科大学初代学長を冠として据え早川は常務)。この間、彼の周辺に登場する人物は、先の大隈重信を始め高田早苗、渋沢栄一、後藤新平、池田成彬、五島慶太など錚々たるメンバーだ。工事が始まるのは関東大震災後の1925年、第一期は上野-浅草間2.1km。ここからは工事に当たる大倉土木(現大成建設)の職工・工夫たちが主役に変わり、何事も初めての地下鉄建設における工法や資材・機材、組織管理に関する話が中心に進められていく。清水トンネル掘削工事を経験した半ば盲目の老掘削工と若い現場監督の葛藤など、小説としての味わいが濃い部分だ。開業は1927年(昭和2年)12月29日。その後は上野から新橋に向けて延伸を続け、1934年当面の目標であった新橋駅までが開通する。

この少し前鉄道院勤務に飽き足らない五島慶太はそこを退官、実体のない東京横浜電鉄株式会社を立ち上げ既存の目蒲線につなぐ多摩川-神奈川間の新線認可を目論み、さらに大倉土木と組んで渋谷駅-東京駅間を結ぶ新地下鉄路線(東京高速鉄道)敷設を画策する。これは私鉄が山手線内へ延線出来ないことへの対応策なのだ。東京駅を終端とする案は大倉土木の希望だが、五島はこれを新橋に変え、早川の地下鉄と直結しようとする。先ず大倉土木の持ち分を買い取り、東京地下鉄株式会社の株式も密かに買い集め早川に同意を迫る。この計画は国や都も巻き込み壮絶な戦いとなるが、国と都が経営に関与することと早川の引退を条件に帝都高速交通営団が誕生。こうして1939年9月渋谷駅-浅草間直通運転が開始される。1940年形式的に早川が社長に就任するも、直ちに退任。その後は郷里で後進の人材育成にあたり、1942年他界する(享年61歳)。現在日比谷線銀座駅2階中央部にその胸像が据えられている。ほぼ一世紀を経た現在、東京地下鉄の総延長距離は、東京メトロ・都営合わせて301km、その偉業は称えられてしかるべきだろう。

直木賞受賞作家の作品ゆえ、文庫本で520頁の大作だが適度にヤマ場が配され、飽きることなく読み進められる。私がそれ以上に楽しんだのは、そこに導入された工法や機械類の詳細である。考証が行き届き、技術史の一端としてその価値を認めたい。

 

4)戦争とラジオ

-事実上の国営放送、政府広報機関の戦争責任を内部から追及する-

 


本欄で取り上げる書物は戦争・軍事に関わるものが多い。眼を通していただいている方々から軍事オタクと見られていることは承知しているし、自分でもそう思っている。ただ、軍事なら何でもいいかというとそうではないことを少々説明しておきたい。興味の対象は二つの分野、軍事技術と昭和史に絞られる。前者は幼児時代からの乗り物好きと後年技術者を生業としたことによる。後者は自分の生きた時代、特に太平洋戦争(大東亜戦争)への道が出生地満洲と深く関わることに関心が集中している。別の見方をすると、前者は広義の科学技術(数理を含む)、後者は政治・経済・社会に偏しており、地理的には前者は欧米中心、後者は我が国と東アジアに限られる違いもある。今回本書を読むことになった動機は言うまでも後者に観点からだ。

我が国メディアと太平洋戦争の関わりは、新聞については戦後調査分析が各方面(学界から業界自身まで)で進められ著書も多いし、私も何冊か所有している。しかし、放送に関しては終戦をテーマとした「日本の一番長い日」の中で玉音放送を巡るNHK内の動きが断片的にクローズアップされるようなことはあっても、通史的に記されたものを目にしない。その理由は、放送はNHKが唯一の存在で、実質国の機関と同じであったことと深く関係があるように思われる。つまり、外から内部を窺いにくい環境に置かれていたことで厳しい戦争責任追及を免れていたのではなかろうか。本書の著者は元NHK職員、出版社はNHK出版、身内だけにどの程度批判的に語られるか、いささか疑いを持ちながら読んでみることにした。

著者は1957年生れ、1982年NHK入局。番組制作を主務(後年は特にETV)とし、2016年放送文化研究所の研究員に転じ、2022年退職。本書は、月刊誌「放送研究と調査」2017年8月~2021年12月に連載された<戦争とラジオ>シリーズを単行本化したものである。また、2011年 ETVで放映された「戦争とラジオ」「敗戦とラジオ」が随所で引用されている。

NHKの起源となる、それぞれ独立した社団法人の東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局が発足したのは1925年、三局統合で日本放送協会(NHK)となるのは翌年1926年(大正15年・昭和元年)である。逓信省が指導・検閲することが定められ、条例に「政府これを管掌す」とある。この段階から新聞とは全く異なり、政府の一部と言う性格を持つことになった。当初は独自の取材組織を持たず内務省の検閲を受ける新聞社や通信社の記事をさらに逓信省が検閲し、その結果を一字一句変えずに放送することを義務付けられていた。その後国策の同盟通信社が発足すると、その記事の編集だけは認められるが、これも逓信省の検閲を受けその意向に沿った内容に改定することを要した。満州事変以降はこれに軍の意向が反映され、逓信省以上に影響力が大きくなっていく。報道部員の中にはジャーナリズムの中立性・批判性を主張する者も皆無ではなかったが少数意見であり、NHK自身が国策を内面化(自主的に政府・軍にすり寄る)していくことが進み、プロパガンディスト・アジテーターに変じていくのだ。

本書はこれを、報道・編集部門、録音・実況部門、技術帽門、番組制作部門、アナウンス部門など機能別に時勢に依る変遷を追うもので、生存する関係者への聴き取り、残された放送原稿、関係者の日記、会議議事録、当時の放送関係誌、などを通じて戦争とNHKの関係を、個別事例をベースに追及していく。そこに見えてくるのは国民の戦意高揚に向け“報導する報道”の姿である。報道部門は不利な戦いを改変、録音・実況部門にも巧妙な作為が施され、番組制作では教養番組も娯楽番組も督戦の性格を強め、アナウンスは「淡々調」が「雄叫び調」に変わって行く。因みに1942年入局組は「雄叫会」と称し、戦後人気アナウンサーとなる宮田輝、高橋圭三などがメンバーだ。

いよいよ敗色が濃くなると内閣情報局(逓信省に代わる指導・検閲組織)は「国民全部の罪にする」よう国民の敗戦意識を作り上げることにNHKを利用する。“一億総ざんげ”はここにあったのだ!そして終戦、今度は政府に代わりGHQが同じようにNHKを広報機関として活用、戦前同様それに盲従するを得ない状況に置かれる(例;原爆報道に対する厳しい規制が詳しく記される)。

以上のような歴史的変遷からNHK内には「仕方がなかった史観」が横溢し、「反省なしの上から目線」が今に続く。「それでいいのか?!自らの戦争責任はないのか?」。著者が追及する論点はここにある。一見インテリ左翼典型の問題意識だが、随所で「ところで、お前がその立場だったどうする?」と自身に問い直し、それに苦悩したことを告白するところに著者の真摯な姿勢を感じ、あの戦争に関わる問題の深さを改めて認識し直した。単行本で600頁に近い大作、1951年民放発足位までの“我が国放送全史”と言える内容だ。それだけに索引が無いのが大いに不満。

 

蛇足;年末朝日新聞書評欄“今年の三作”で昭和史を専門とする保坂正康は本書をその一つに挙げている。

 

5)日本の歴史(20巻)

-小学校6年生の指導要領に従った日本史をまんが学習シリーズ20巻で学び直す-


常識として備えるべき知識について、歳が進むにつれて「欠けている」と負い目を感じるのが日本の歴史と文化に関する事柄である。日本史を学んだのは中学2年のとき、講和が成りそれが許されたからだ。社会科の一部としてではあるが、新鮮な教科に惹かれた思いがある。しかし、それ以降日本史に関する興味は失せ、高校では世界史と人文地理を選択、これらへの関心は今に継続する。日本文化となると歴史以上に疎い。好きな映画は邦画よりも洋画、ミュージカルはニューヨーク、ロンドンで何度か見ているが歌舞伎観劇は皆無だ。音楽も、ジャズやアメリカン・スタンダードあるいは映画音楽が好み。クラシック音楽では一時期東京フィルハーモニーの定期演奏会会員でもあったが、邦楽を聴きたいと思ったこともない。今月半ば古くからの仲間とささやかな忘年会を持った。このメンバーは、和歌、浮世絵、城郭、戦国史から長唄、竹細工まで日本の歴史・文化に造詣が深い。今回は茶道の話を聞く機会があり、自分がいかに無知だったかを知らされ愕然となった。40代からこのコンプレックスを意識するようになったが、だからと言ってそれを少しでも改めようというところまで達せず今に至る。本シリーズの新聞広告を目にした時、「大人の学び直しにも最適!」という惹句に釣られ、「孫へのクリスマスプレゼント」を口実に買い求め、16巻+別巻4巻を一気に読み通した。

一般の人には常識と思われる内容紹介は避け、ここではこのシリーズ本がどのようなものかをかいつまんで紹介する。

先ず、準拠するのは“小学校6年生社会科指導要領”に沿うとなっている。しかし、すべての漢字にふり仮名がふってあるので、小学校4年生くらいから理解できるのではなかろうか。広告には“大学受験にもしっかり対応”とあるから、中身は高校の教科書のレベルにあるのかもしれない(私は学ばなかったから確信は持てないが)。“大人の学び直しにも最適!”はその通りだった。時代の流れは中学生時代学んだ教科書通りで、旧石器時代からはじまり縄文・弥生時代、飛鳥・奈良時代と進み、戦国時代を経て徳川時代、近現代の昭和・平成・令和まで続く。初版が2015年に発刊されたときは15巻だったが、平成後半と令和が最近追加され16巻となった。2016年以降このジャンルの出版物としてベストセラーを続けており、販売部数は850万部を超えている。信じられない数だ!著者は存在せず監修者は元東大教授の山本博文と五百旗頭薫となっている。山本は1957年生れ、東大大学院教授(情報学、文学博士)、2020年死去。各巻に解説者として登場するから、この人が実質的な編集者であろう。五百旗頭薫は1974年生れ、東大大学院教授(法学)。作画は一人でなく、表紙を含め十人近くが携わっているが、画感は統一されている。平安・室町・江戸時代は2巻で成るが他は1巻、一巻は180頁強で著され、16巻を区切りよく読み進められる。どの巻も見開き2ページに登場人物と彼らの相関を示す絵があり、言わば予告編の役割を果たしている。また、山本による勘所の解説、*マークを付けた難しい言葉や重要事項の説明も理解を助けてくれる。文字だけの記述に比べ絵による学習は歴史理解に欠かせない“流れをつかむ”点ではるかに優れており、小学生高学年から中学生には最適な教材と言える。ただ、絵で描くことに問題がないわけではない。文字ならば個人の想像力が多様な興味を膨らませる可能性があるのに対して、絵はそれを制約する面がある。特に、人物描写はその影響が大きく、要注意点だ。

別巻は図鑑や明治以降の近現代史で戦争や国際関係が掘り下げられている。全20巻で価格は19,140円、バラ売りもしている。

 

6)ロシアから愛をこめて

-1990年代のTV局モスクワ支局長滞在日記と直近短期ウクライナ戦争取材記を合体させたもの。時間の隔たりとバランスの悪さに、売らんかなの卑しさを感じた-

 


2003年3月、1985年から従事していた情報サービス会社の管理・経営の職務を終わることになった。64歳である。その後3年間顧問として残ることが内規だった。一方で、40代後半から60歳で定年退職したらもう一度石油精製・石油化学の現場に戻りたいと考えていた。退職時期は4年延びたものの、その可能性を探るため、2003年年頭親会社YKGの役員にそんな希望を語ったところ、ユーザー知見を海外営業で生かしてほしいとその機会を与えてくれた。そこで最初に取り組んだのがロシア市場の開拓、結局2年少々この仕事に専念した。ソ連崩壊から既に12年を経ていたが、それまで訪問したいずれの国とも異なる国情に戸惑うことを多々経験する一方、YKGロシア社の従業員を中心にロシア人との交流を通じ、陰気・陰険なロシア・イメージを刷新することが出来た。その後のロシアを知りたく、副題「あれから30年の絶望と希望」に惹かれて本書を紐解いた。

著者は1953年生れ、大学卒業後TBSに入社、1991年3月から1994年6月まであしかけ4年モスクワ支局長を務めている。この間はゴルバチョフ(ソ連、共産主義)からエリツイン(ロシア、資本主義)への激変期。そのロシア通が、ウクライナ侵攻の予兆にジャーナリスト魂を掻き立てられ、2022年2月24日(侵攻当日)羽田を発ちルーマニア・ウクライナ国境域で開戦直後の情勢を取材、その年の12月29日にはモスクワに飛んでロシア側の情勢を調査分析する。つまり“30年”は1990年代と2020年代を意味する。

本書の構成はいささか異形だ。「ロシアから愛をこめて-モスクワ特派員滞在日記1991~1994」と題する単行本が刊行されたのは1995年、著者がモスクワを離れた翌年である。これに2023年3月刊の月刊誌「論座」に寄稿した「ウクライナより愛をこめて」と2023年1月刊の月刊誌「現代ビジネス」に寄稿した「ソ連の亡霊どもが彷徨っているロシア-金平茂紀のモスクワ日記」を合本して文庫本としたものである。従って、1991~4年の部分が約360頁、2022~3年は約80頁と大きな偏りがある。前者が年単位であるのに対し後者はそれぞれ1週間程度の報告(補遺扱い)。

記述方式は、前者が月数回の手紙および日記形式、後者も日記形式だが一日分が長くルポルタージュ風になっている。このような構成ゆえに、話は時間軸に沿って、体験談(取材、支局運営、個人的体験)中心に書かれ、特定のテーマ別章立てでないことから、一般論として当時のソ連・ロシアを把握するには適していない。ただ身近な出来事だけに、それから10年経ち私がロシアで見聞・体験した、変わらいもの・変わったものの違いを確かめることができた点で、それなりに興味深く読んだ。

大きく変わったのは消費者レベルの経済。著者滞在前期はこれが酷く、インフレ、年金生活者の苦境、浮浪児・ホームレス、モノを求める長い行列が縷々語られるが、2000年代のロシアに極端なインフレは無かったし、モノ不足も感じられなかった。ただ、本来国有財産であったものを奪い取ったマフィアもどきのオリガルヒ(財閥)は依然大きな力を持っており、一般庶民の怨嗟の的だった点は同じだ。私の滞在中はプーチン大統領が2期目に入るところだったが、このオリガルヒ潰しで人気を集めていた。小さな犯罪(例えば、両替のごまかしや空港保安検査での現金抜き取り)は体験したが、本書で書かれている社用ベンツを取材中盗まれるような犯罪事件は見聞しなかった。変わらないのは官僚組織と公務員の質の悪さ。入国審査にやたら時間がかかるし、警官が些細なことで賄賂を要求する(例えば、国内ビザ(旅券に添付される)の記載欠陥や軽度の交通違反)のは日常茶飯事。空港や工場のトイレの汚さも変わっていない。共産党時代の階級差別が形を変えたもの(党員経歴や地位がカネに変わる)の話が種々出てくるが、私も旧ソ連邦の外国(ウクライナ)や地方空港でその種の差別を垣間見た。入出国審査や出発・到着場所が一般と異なり早かったり快適だったりするのだ。ジャーナリストの場合、立入認可やインタヴューなどにコネやカネで著しく違いがあったようだ。

本書を今読む意義は補遺のウクライナ戦争に対する現場報告。まさか開戦するとは思わず、2月24日羽田を発ち、イスタンブール経由でキーウに至る取材の旅に出かける。開戦を知るのはイスタンブール空港。キーウ便は飛ばず、ここから陸路ルーマニア内を走りウクライナとの国境地帯に至り、逆方向へ流れ出てくる避難民に取材。着の身着のままのその姿が臨場感を持って伝わってくる。一方のモスクワ訪問では、西側ブランド店などは営業停止にあるものの平時と変わらぬ街の姿。インタヴューで市民に「2023年が良い年になると思いますか?」と問うと、ほとんどが何の迷いも衒いもなく「良い年になると思う」と答える。そこに著者が感じ取るのは、一見明るい官製世相の裏、30年後のプーチン独裁下におけるソ連回帰、重く暗い社会の再来である。

 

2023年総括

本年紹介した本は71冊+1全集(日本の歴史20巻)、この中から“今年の3冊”を選んでみた。

①エッフェル塔(5月);エッフェル塔100周年を記念して著された小説だが、史実に基づいたその建設背景・過程がよく理解できる。

②水危機を乗り越える(11月);国造りに欠かせない水の確保。これにイスラエルがいかに取り組んできたかを詳述する。

③国家は巨大ITに勝てるのか(12月);GAFA+Mの国家統治を超える影響力を政治・行政から分析、その近未来を読む。

 

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2023年12月30日土曜日

一人参加の三陸ツアー(3)


3.雪中行軍


数日前からの天気予報は盛岡方面午後みぞれを伝えていた。駅到着時は小雨模様、高所は予報通り雪になる可能性をうかがわせる。盛岡駅の東側は比較的新しく開発されたようで、古い地方都市の趣きは全く感じられない。バスは12時45分駅前を出発、一旦南下してから東に向きを変え国道455号線に入り、さらに北東方向に進んでいく。目指す観光スポットはリアス海岸の典型と言われる北山崎。


盛岡市街は東側も小規模で直ぐに丘陵地帯に入っていくが、緑か枯葉、紅葉しているものは少ない。道は次第に高度を上げ雨はみぞれと化し、進むに従い白さが増してくる。駅を発ってから1時間もしないうちに本格的な雪中行軍となり、木々も道路も笹原も白色に変じる。途中外山森林公園、人工湖の岩洞湖など見所もあるのだが、降りて観光など叶わない。


バスはひたすら白樺林と雪の中を淡々と走り、この道の最高点早川峠をトンネルで抜ける。驚いたことに“雪国”とは真逆、「トンネルを抜けると雪は消えていた」。そして山々は黄色に変色、14時前には最初の休憩地、道の駅「三田貝分校」に到着。ここはかつては小学校の分校だったようだ。気温は2℃、寒さは厳しいが雪になる温度ではない。

 

(つづく)

 

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2023年12月20日水曜日

一人参加の三陸ツアー(2)


2.初めての国内ツアー

三陸方面を個人で効率的に回ることは特に交通・宿泊面で制約が多いことから、やむを得ず旅行社(クラブツーリズム;CTM)が用意するプランの中からこちらの希望に近いものをあれこれ当たり、11月12日に東京駅を発つ“初めての三陸海岸3日間”の予約を入れた。この時点では催行人員数25名に達しておらず、決まり次第連絡するとのことだった。幸い9月末催行決定となり、費用振込依頼の書類が送られてきたが、詳細旅程情報は皆無(例えば、集合場所や時間、列車番号)。旅の楽しみはその前後を含むもので、ツアーとは言えそれなりに自分の味付け(訪問場所や気象の事前調査、地図の準備や名物・土産情報など)をするために詳しい旅程が必須だ。海外ツアー参加知見から、費用振込後に直ちに資料が送られてくることを期待して、10月第1週に振込を行った。しかし、その後2週間以上経っても何の音沙汰もない。予約申し込みを行った近畿日本ツーリスト(KNT)の支店に問い合わせたところ10月末ないし11月始めには旅程表が送られてくるはずとの返答を得たので、それまで待つことにした。しかし、それを過ぎた11月6日(月)になっても依然何の連絡もない。たまりかね、この日午前KNTに苦情のメールを強い調子で発信した。返って来たのは「CTMは2日(木)に資料を発送しました。国内ツアー案内は10日から1週間前に送ることがルールになっています」である。この時は3日(金)祝日、土・日と3連休になる。「2日投函したから何ら落ち度はない」と言わんばかりだ。KNT・CTMともに、旅をビジネスにしていながら、実施前後にある(自社の収益に関係ない)楽しみ方に全く気が付いていない。“ツアーの限界”を出かける前に痛感させられた。


送られてきた資料はペラペラの紙2枚。1枚目は表紙と集合場所・時間・往復路で利用する列車案内(番号、時間)、2枚目はごく簡単なスケジュール。初日の昼食は無く、自分で用意し車中で各人摂るようにとの注意書きがある。

数日前から盛岡、仙台の天気予報をチェックしていると、当初は初日曇りときどき晴が日を経るにしたがい少しずつ悪化、前日には首都圏は雨、盛岡はみぞれとなり、先行きは明るくない。しかし、2日目の予報は太陽マークもあるので、海岸巡りに期待は持てる。

当日の朝は予報通り小雨だったが家を出る頃には止んでおり傘は不要。東京駅集合は出発30分前の9時50分、東京駅構内で昼食用の駅弁を求め集合場所に着いたのは9時40分頃。八重洲口1階日本橋側に団体旅行専用広場在りそこが集合場所だ。海外旅行の空港とは異なり旅行社専用カウンターなどなく、同じ社が催行する他のプランがいくつもあり、混雑する広場で担当者を探すのに一苦労する。ツアーコンダクター(TC)は40歳代半ばとおぼしきおばさん(ISNさん)、出発に先立ちバッジと列車指定座席や観光立寄り場所に関する資料が渡され、この日の行動に関する注意事項が説明される。その中でこのプランの参加者42名であることを知る。何と大人数なことか(これがプラン参加最大数;バスの席数)!

東北新幹線への入場は団体専用口から、乗車するのは新青森行き“はやぶさ17号”2号車これも他社他プランを含む団体専用車、座席は9番C席通路側、A/Bは同年輩のご夫婦、軽く挨拶はしたが盛岡駅で下車するまで会話はなく、こちらは駅弁を食すまで読書に専念。仙台辺りで少し明るくなったが、盛岡駅到着時(12時32分)当地は雨だった。駅の西口駐車場には東日本交通の専用バスが待っており、爾後このバスが仙台までの移動手段となる。42名の構成は、3人・4人グループが各一組、一人参加は私だけ、他は概ね老年カップル。私の席は運転手直後の本来はTC席を空けてくれ、彼女は運転手と同レベルの補助席を専ら使ったので、一人で先の見通しの良い2座席を利用でき、今度の旅を大いに楽しいものにしてくれた。12時45分バスはリアス海岸名所北山崎を目指して駅前を出発した。

 

(つづく)

 

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2023年12月15日金曜日

一人参加の三陸旅行(1)

1.旅の再開

2019年7月宗谷岬までの長距離ドライブ旅行を終えた時、次は三陸をと考えていた。しかし9月の硬膜下血腫発症と翌年初から始まったコロナ禍でちょうど期限が来た免許証返納、長い蟄居生活に入った。この間の旅は2021年秋の修善寺温泉だけだった。昨年から旅禁断症となり、あれこれ可能性を当たってきたが、家人は足が弱ってきていることもあり、公共交通機関利用の遠方旅行には一向に関心を示さない。好きな鉄道で一人旅でもするか、とコロナ5類移行が見え始めた連休前から三陸鉄道リアス線を主体とする旅の具体化を検討し始めた。分かってきたのはこの地方の一人旅は思った以上に不便な点が多々あることである。


最初に考えた案は、東北新幹線で八戸まで行き、ここから八戸線で久慈へ出て、南北がつながった三陸鉄道リアス線を盛(さかり)まで南下、その先は震災後鉄道再敷設を諦め、鉄路をバス専用道路に変えた所を走るBRT(Bus Rapid Transit)で気仙沼か石巻まで行き、そこから大船渡線か石巻線経由で新幹線につなぐというものだった。ただいくら乗り物好きと言っても始点から終点まで乗りっぱなしする考えはなく、観光スポット(リアス式海岸の代表北山崎、浄土ヶ浜など)、震災の害が大きかった所(田野畑、陸前高田など)、よく知られた都市(宮古、釜石、気仙沼など)に立ち寄り、名物を食したり、土産物を求めたりしたかった。こうなると、交通機関が効率よく利用できたとしても、最低3泊4日はかかりそうだ。宿泊地は;一日目は八戸、二日目は宮古か浄土ヶ浜、三日目は陸前高田か気仙沼を想定し、検討を開始した。


先ず当たったのは宿泊先。八戸・宮古・釜石にビジネスホテルは在るものの八戸を除けば、駅・繁華街・観光との利便性と施設仕様がこちらの要望をすべて満たすものは見つけられなかった。それでは観光地をと選択肢を変えてみたが、プランが二人ベースばかり(一人でも泊まれるが割高になる。部屋が限られオーシャンビューが保障されない)。また、鉄道だけでアクセスできずバスかタクシー利用となる。さらに、タクシーは最寄り駅ではなく、先に挙げたようなそれなりの規模を持つ都市にしか常駐していない。宿泊先以上に問題なのはこのタクシーを含めた交通の便だ。いずれの路線も通勤・通学時のみ1時間2本程度あるものの、それ以外の時間帯では2~3時間に1本程度、これとローカルバスの組合せなど時間効率を著しく悪くし、3泊で所期の目的を達するのは極めて難しい。残るはタクシーのチャーターだが費用がバカにならない。時間と費用の効率を考え、不本意ながら自由度のないツアー参加を検討する結果になった。

しかし、このツアーも思い通りのものはない。基本は一部屋2人ベースだが3人・4人もザラ。当然だが1人部屋(この数に制約あり)を希望すれば追加料金となる。また最少催行人数があり(最多人数を記されているものは極めてまれ)、多くのプランはそのレベルが高く、少人数の落ち着いた旅を期待できないし、要件達成まで催行実施が決まらない。9月半ばに旅行社(近畿日本ツリースト;KNT)に出かけ、10月中旬希望で検討したが、“一人”がボトルネックで、予約(25人催行待ち)できたのは、11月12日出発のクラブツーリズム(CTM)のプラン「三陸アワビ・ホタテ浜焼き・生まぐろ丼、七つの名所へご案内、初めての三陸海岸3日間」が最も早いものだった。「東北はもう雪ではないか?」そんな時期である。

プランの内容:1日目;東京駅→東北新幹線→盛岡→専用バスで北山崎→島越駅→グリーンピア三陸みやこホテル泊、2日目;ホテル→専用バスで龍河洞・浄土ヶ浜→宮古駅→三陸鉄道北線→陸中山田駅→陸中海岸グランドホテル泊、3日目;ホテル→専用バスで陸前高田→塩釜→松島→仙台駅→東北新幹線→東京駅。費用は6万9千6百円。松島には何度か出かけており興味は無かったし、三陸鉄道利用が短いのは不満だが、あとは何とか見かけ上必要条件を満たしていた。

(つづく)

2023年11月30日木曜日

今月の本棚-184(2023年11月分)

 

<今月読んだ本>

1)実践 自分で調べる技術(宮内泰介、上田昌文);岩波書店(新書)

2)水危機を乗り越える!(セス・M・シーゲル)草思社

3)ヒトラーの馬を奪還せよ(アルテュール・ブラント);筑摩書房

4)戦争とデータ(五十嵐元道);中央公論新社(選書)

5)天を測る(今野敏);講談社(文庫)

6)索引 ~の歴史(デニス・ダンカン);光文社

 

<愚評昧説>

1)実践 自分で調べる技術

-体制批判左翼の洗脳手段と疑ったが、わりとまともな内容。しかし、技術者には当たり前の話-

 


今月初め、2027年以降の蛍光灯製造禁止が報じられた。二、三のメーカーが数年前から製造を停止していたことは承知していたが、記事には水銀利用を禁じる水俣条約(国際条約)に依るものとあり、こんなところに今頃“水俣”が出現したことに驚かされた。我が国公害史は明治期の足尾銅山の鉱毒事件に始まるが、何と言っても社会的インパクトと言う点で水俣病はその原点といえる。この事件で記憶に残る人物に当時東大工学部の助手(東大在籍中21年間この地位は変わらず)を務めていた宇井純(故人)がいる。「企業や行政は都合の悪いデータを隠したり改竄したりするから信用できない。自ら調査分析しよう」と反公害運動を展開、在野の旗手と崇められていた。

本書のあとがきを読んで、著者(二人)が宇井主催の「自主講座」の受講生で、それに影響されたことが記されていた。それで「ウン?」となり直ぐ読み進める気にならず2年以上放置していた。理由は、その後の公害訴訟関係者(主として化学工業)から宇井に感化された活動家たちが作為的なデータ選択とマスコミ誘導を行っているとの話を聞かされていたからである。しかし、このまま捨て置くのも惜しい、一応目を通しておこうとなった。

著者宮内は北海道大学大学院文学研究院教授(環境社会学専攻、博士)、上田は大学で生物学を学び2、3の大学で教員を務めているが市民活動家のようである(NPOの代表など)。

「市民は常に企業や行政の施策によるリスクにさらされている」。この問題意識を基に「だから自分たちで調べ、それをただしていかなければならない」、とその具体的活動手順を示すのが本書の概要である。その視座は宇井の思想の流れをくむが、内容はそれほど反権力色を感じず、学習・研究・企業活動・地域市民活動など広い範囲で参考になる一種の教材といっていい。

自ら調査を行うことの必要性、書籍・文献調査のやり方、フィールドワーク(聞き取り調査など)の進め方、アンケート調査や統計データ収集・分析の留意点、クリティカル・リーディング(信頼度を意識し批判的に読む;5章構成の1章を割き、「国家万能神話」「専門家万能神話」に警鐘;この章のみ上田担当)の重要性、情報の整理とプレゼンテーション、アウトプット(論文等)作成の方法・手段、が平易に解説される。ただ、エンジニアとしての教育を受け、実務を担当してきた者としてはごく常識的な内容で、格別目新しい方法論ではなかった。唯一の収穫は、ネットによる図書館(国会、一部公立、大学、専門特化)利用あるいは新聞情報へのアクセス、書籍・文献の検索、データ処理に関する各種アプリケーションパッケージの紹介と使い方がかなり具体的に記されていることで、これは今後に役立ちそうだ。

 

2)水危機を乗り越える!

-砂漠に出来た国ながら水大国のイスラエル、パレスチナ自治国やヨルダンにも輸出-

 


1970年出版直後に求め、いまだ大切に保有している一冊の本かある。イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」がそれだ。この本の第一章は“安全と自由と水のコスト”、日本人にとってはタダ同然だがユダヤ人にとっては何ものにも代え難いとあり、意表を突く比較対象に括目させられた。このたびのハマスとイスラエルの戦いが始まったとき、ガザ地区への電力・水の供給が止まったとの報を知り、この地域の水事情は現在どうなっているかを知りたく、本書を見つけた。

第一次世界大戦後1920年オスマン帝国と連合国の間に結ばれたセーヴル条約によりパレスチナ(現在のパレスチナ自治国・イスラエル・ヨルダン)は英国委任統治領となる。折しもソ連によるポグロム(ユダヤ人迫害)でロシアを逃れたユダヤ人のこの地区への移住が活発化、さらにナチスドイツの誕生でその流れに拍車がかかる。この時からアラブ系住民との争いが絶えず、英国は給水量を理由にユダヤ人移民を厳しく制限する。イスラエル国家誕生前から、水こそが民族生殺与奪の因となっていたのだ。本書はこの時代から現代までの水との戦いを描くものである。

英国の入植制限は第二次世界大戦前だがこの地に早くから住みついていたシオニスト(ユダヤ人国家再建主義者)は同胞を迎えるため、水資源の探査とその送水方法を検討、1948年イスラエル建国と伴にこれを具体化していく。先ず手掛けるのは水資源の国家管理ための法律「包括的水管理法」の制定。ここでの水は雨水も下水も含む徹底的なものだ(家もバケツも私物だが雨水は国のもの)。次いで戦前計画にあった水源(特に砂漠地帯の帯水層)確認と送水網の構築、ここでのインフラ整備はガリラヤ湖とその上下に在るヨルダン川の水利用、特に南部のゲネフ砂漠への地下埋設送水管の敷設だ。開発・管理が順調に進めば英統治時代を大幅に上回る移民受け入れ可能性が見えてくる。これらの活動により、時間をかけて南部砂漠地帯への入植が実現していく。財源は米国を中心とするユダヤ人の巨額な寄付とドイツの戦時賠償金。水資源開発のみならず利用にも国家が介入、廃水の再生(特に農業用)、灌漑方法(点滴耕法)、水消費が少ない農作物の研究、水利用に関する教育・啓蒙などがそれらだ。

そして海水淡水化への挑戦。これがイスラエルの水事情を一変させる。1980年代までは各国で導入されていた蒸発法を試みるがコスト面(エネルギーと設備)で普及に限界があった。そこで登場するのが逆浸透法(微細な膜フィルターを利用)。1960年代米国で発明されたものだが、このロイヤルティーを取得、時間をかけてものにしていく。オフピークの電力利用などでコストダウンを実現、現在では一般家庭用水の94%はこの手法で製造・供給されている。そればかりか、ヨルダンやパレスチナ自治国に輸出さえしているのだ。

豊かになったのは水資源だけではない。膜製造技術、水道機器、計測器、漏水検知・修復技術、小水力発電、取水・給水網管理技術、データ処理・分析技術、水化学技術、人工雨実用化(ガリラヤ湖への降雨を10%増した)を発展させ、イスラエルを世界的な水技術先進国の地位に押し上げる。それにより砂漠国家はもとよりアフリカ諸国や中国、インド、水の豊富なブラジルや高度技術を誇る米国へも、水コンサルティングサービス提供や機器輸出を行っている。

世界で唯一砂漠の面積を縮小させた国、建国時80万人だった人口は現在900万人を超え、地域の強国に変じている。これまでに投じられた資金は、一人当たりで米国がパナマ運河に投じたものの2倍になるという。水は高価なものに違いないが、国家の発展はそれを補って余りある。

現在水の心配がないように見える先進諸国は、農産物輸入を通して大量の水を消費していることを忘れるなと警告する(訳者あとがきに、我が国農産物輸入にともなう仮想水使用量は年間推定800億立方メートルに達し(2005年度)、これは国内で使用される生活用水・工業用水・農業用水の総取水量と等しいとある)。我が国には“湯水のごとく”なる副詞がある。豊かな天然水資源国だが、現状のままの水技術・管理で今後も安泰なのだろうか?こんな思いで読み終えた。

著者は1953年生れ、コーネル大学大学院(法学博士、弁護士)で学んだ後ベブライ大学で国際関係を専攻、中東問題を主眼とするジャーナリスト。フォーリンアフェア誌を刊行する米外交問題評議会メンバー。

 

3)ヒトラーの馬を奪還せよ

-総統官邸破壊と同時に失われたはずの巨大な2頭の馬の銅像、実物が存在するのか?“美術探偵”がその謎を追うノンフィクション・サスペンス-

 


2018年待望のドイツ旅行を実現した。好きではないが、この国への思い入れはひとかたならぬものがあった。第一は科学技術、第二はナチスとヒトラーである。それ故、本来は綿密に計画した個人旅行にしたかったが、気力・体力はともかく聴力低下は如何ともし難くツアー参加にせざるを得なかった。技術の一端に触れたのはケルンからベルリンへ至るICE(高速鉄道)くらい、ベルリンが米英空軍の猛爆とソ連軍の侵攻で壊滅したことは承知していたが、ナチスの痕跡、特に総統官邸の跡地だけでも垣間見ることが出来ればと期待したがそれも叶わなかった。本書は、その官邸のヒトラー執務室から見下ろす位置に据えられた、ブロンズ製高さ3m重さ1tの巨大な彫像「闊歩する馬」2体を巡る物語である。

本書のタイトルはまるでナチス物サスペンス小説のようだ。私が着目したのもそこにある。帯に見る「事実は小説より奇なり」がその通りの、驚くべき展開をする美術ノンフィクションである。

著者の生年・詳細経歴は不詳だが、蛇足に記した新聞記事には47歳とあった。国籍はオランダ、スタートはコレクターだが、その後仲間二人と美術品調査・鑑定コンサルタントを生業としている。何しろ欧州では毎年70億ユーロにおよぶ違法(盗品・贋作)美術品取引が行われているのだから、こんなビジネスが成り立つのだ。200件以上の盗作などを発見、<美術界のインディ・ジョーンズ>なる異名を持つほどの人物。

2014年、半ば引退している著者の指南役とも言える美術品仲介業者から相談を持ちかけられる。「ヒトラー総統官邸に在った2頭の馬の彫像が密かに売りに出ている。戦災で建物と一緒に破壊されたはずだが、いまだ存在するのかどうか調べて欲しい」と。

1945年3月官邸中庭でヒトラーが少年兵を閲兵する写真には、馬の位置に衛兵が立ち、彫像はどこかに移されている。何から手掛けるか?実物を作成するために作者(ヨーゼフ・トーラック)はミニュアチュアを5体作り、これをナチス高官に贈っている。探索はこれを見つけることから始まる。得体の知れない老貴婦人、祖父や父がナチス時代高名弁護士だったベルギー人、ネオナチ組織のメンバーなどをたどり、ついにミニュアチュアの1体を発見する。ネオナチはさらに旧ナチスの支援組織へとつながり、実物の存否にこれら関係者の名前がちらほらするものの情報の確度は高くない。ただ、この追跡行でソ連軍兵士が馬の彫像を背景に撮った写真が見つかる。確かに戦後も馬は存在したのだ。場所はソ連軍が使用していたかつての国防軍兵営(東独)だが、そこに馬は残されていない。誰がいつどこへ動かしたのか?ソ連崩壊前ここを去ったソ連軍司令官は、金属彫像は全て解体処分したとの言を残しているだけ。東独におけるソ連軍・KGBとシュタージ(東独版KGB)の関係を探ると、冷戦時一部美術品が、密かに西側へ密輸出され外貨獲得に一役かっていることが判明する。これから先もメディアや警察の美術品犯罪摘発組織が絡み、登場人物は皆表へ出ることをはばかる者ばかり(親衛隊全国指導者ハインリッヒ・ヒムラーの娘を著者は訪れる。彼女はナチス支援組織の女王格、出自を隠しひっそり暮らす)、なかなか一直線に解決とはいかない。しかし、2015年5月ついに2頭の馬は発見され、所有権をめぐる裁判の末ドイツ政府のものとなり、2021年にはベルリン・ツィタデル博物館で公開される。

読後に残った最大の疑問は「この活動で著者らはどれだけの報酬を、どこから得たのだろうか?」である。

 

蛇足;11月28日(火)朝日新聞夕刊一面に「美術探偵、裏社会に沈んだ盗難品を追う」という見出しの記事があった。2020年オランダの美術館から盗まれ、所在不明だったゴッホの「春のヌエネンの牧師館の庭」が発見・回収されたとの内容。この美術探偵は著者、その「師」とされ今回の記事にあるミシェル・ファンレインは「馬」の調査依頼者でもあった。

 

4)戦争とデータ

-ときに過大に、ときに過少に報じられる戦争による死者数、時代が下るに従い民間人が急増、その算出メカニズムを探る-

 


“大本営発表”という言葉がある。本来の意味は軍統帥部が国民に向けて発表する戦況報告のことだが、あまりのいい加減さに虚偽情報の代名詞に転じている。ウクライナ戦争でも9月に軍参謀本部が発表したロシア兵戦死者数は約28万人。これに対し、ニューヨークタイムズの報じる数は約12万人、倍以上の差がある。戦果を誇示し、損害を隠蔽することは戦争の常、時には被害を過大喧伝して国際世論を味方につけることもある。仮に作為を離れても、破壊・混乱する戦場・被災地では計数することすら困難な状況が生ずる。このように戦争における各種データには問題が多い。その問題領域に踏み込むタイトル、何が書いてあるのかと読んでみることにした。対象データは“死者数”に絞られる。

本書は、読み物と言うより学術論文に近い内容になっている。著者の説明では科学技術社会論と言われる分野に属するようだ。戦争の死者と言うと先ず戦闘員の戦死を思い浮かべるが、この他に戦病死者、捕虜死亡者を含み、さらに重きが置かれるのが非戦闘員(文民)死者である。

本書の趣旨は、過去の戦争死者数を検証することではなく(事例は多数引用されが)、戦争データの生成構造を分析し、その「見取り図」を示すことにある。そのために、戦争データを見つめる視点として、二つの認識フィルター(国際規範、科学的過程)と二種類のアクター(主権国家、(国家とは離れた)人道ネットワーク)に注目する。フィルター、アクターともにチェックポイントとほぼ同義、違いは視座。国際規範とは、ジュネーブ条約を含む人道・人権に関する国際法や条約。科学的過程とは、単なる数字の確度や信頼性ばかりでなく法医学的な検証を含む。アクターは数字を導き出した組織と言っていい。主権国家は交戦当事者(都合のいいデータを流す傾向)、人道ネットワークは国連の委員会や赤十字、戦争に関わる専門NGOなどを含む非国家組織。組織の性格や政治的な立場により数字に偏りが出る。二つのフィルターを通し、二つの作成者・公表者(NGOは多種あるが)を慎重に評価すれば、意味のある数字(科学的耐久性、社会的信頼性、データの機能性(多様な利用先))が得られるはずというのが著者の仮説だ。

戦争による死者の歴史は古く、遺族の痛みは現代に至るも変わらない。しかし、社会的な視点でとらえると、これが関心を呼ぶのはクリミヤ戦争(1853年~56年)以降と著者は捉え、その後の戦争と死者の関係を社会面から考察していく。クリミヤ戦争では電信がマスメディアによって利用され、戦地の情報が国や軍ばかりでなく、ナイチンゲールに代表されるような文民によって銃後の市民にいち早く伝わり、世論形成に影響する。南北戦争(1861年~65年)、普墺戦争(1866年)、独仏戦争(1870年~71年)、米西戦争(1898年)、日露戦争(1904年~05年)を経て戦死者の保護規定が国際的に論じられ、ジュネーブ条約(1906年)として明文化される。例えば、認識票が採用され、死者の身元確認に利用されるようになったり、赤十字委員会のような中立組織が死者・行方不明者・捕虜の把握に関与するようになる。しかし、このような確認方法も第一次世界大戦では機能しない。総力戦に依る死者数の桁違いの多さ(1千万人超)は軍の行政能力をはるかに超え、近代兵器による遺体破損がさらに数字把握を困難にする。

第二次世界大戦では、大都市空爆などによる文民の死者が多くなり、戦中の死亡確認は積み上げ方式を断念、推算で数字を作り上げることになる(本書で書かれていることではないが、英国では猿を実験材料に推定している例もある)。さらに、ゲリラやレジスタンスは兵士と文民の境を曖昧にし、正確度・信頼性を低下させることになる。その代表例はヴェトナム戦争、米国は敵戦死者数で戦略のみならず、部隊運用評価まで行ったため、文民殺戮で数を水増しする部隊まで出現したという(ソンミ村虐殺事件はその一例)。そして、その後の紛争・戦争はこのゲリラ・レジスタンス戦闘が主体となり、ますます分類と死者数の把握を難しくする。だからこそ、これからの戦争のデータは二つのフィルターと二つのアクターに着目し、“文民”の死を分析・確認する必要があると主張する。

戦争による死者確認が一筋縄でいかぬことはよく理解できたし、留意点も納得したが、数多い事例を著者の提示する仮説に一般化するため、記述に重複感がぬぐえない。また、最近の人道的関心事“化学戦”が過度にクローズアップ(1章を当てる)されていることに違和感を持った。

著者1984年生まれの関西大学教授(専攻は、国際関係論、国際関係史)。英国エセックス大学PhD。

 

5)天を測る

-半世紀前のノンフィクション盗用を疑う実在人物描写、看板の天測技術は無視の詐欺もどき歴史小説-

 


文学作品には時として盗作問題が発生する。古いところでは大藪春彦のデヴュー作「野獣死すべし」が米国大衆小説「特ダネは俺に任せろ」の場面にそっくりだと話題になった。山崎豊子の「不毛地帯」がシベリア抑留者の体験を綴った作品からの盗用と朝日が記事にし、原作者を差し置いて山崎と朝日の訴訟合戦に発展した。私が身近に感じたものに、山崎作品「大地の子」の一部に遠藤誉(筑波大学名誉教授、中国ウォッチャーとして活躍)「卡子(チャーズ;包囲戦を行う八路軍(共産軍)が設けた唯一の関所)」からの盗用があると遠藤が難じた事件がある。これは戦後満洲新京(現長春)に残された遠藤一家の過酷な運命を綴ったノンフィクションである。

本書は遣米使節団を運んだ咸臨丸航海長小野友五郎の伝記小説なのに、こんな書き出しで始めたのは、読み進めるうちに既読感が高まっていったからである。それは1980年代に読んだ藤井哲博著「小野友五郎の生涯-幕末明治のテクノクラート」(中公新書)における勝海舟と福澤諭吉の描写がそっくりだったからだ。それまでの私の印象は、勝にしても福澤にしても、幕末・維新期の偉人というものであったが、藤井が描く勝は航海術など全く知らない無能な艦長であり、福澤は公私混同(特に金銭)はなはだしいお荷物随員になっていたのだ。そして「天を測る」の両人がそれと全く同じ人間として登場することから“盗作”がよぎり、内容よりそれが気になって、愉快に読み終えられなかった。

小野友五郎は文化14年(1817年)笠間藩士小守宗次の三男として生をうける。17歳の時小野家養子となり同藩の算学者甲斐駒蔵に入門、やがて家督を相続する。甲斐に地方(ちかた)算術(統治に必要な実用数学)を学んだことで21歳のとき地方手代に任じられる。25歳で江戸詰めの元〆手代(財政担当)、ここでさらに洋数学を修め、併せて蘭学を学ぶ。この数学と蘭学への精通が買われ、1855年長崎海軍伝習所第一期生に選ばれる。因みに、勝海舟(生年1823年)はこの時の同期生。操船術・算術とも勝は苦手だったようだ(諸説あるが勝は所定学期間で修了していない)。小野は伝習所卒業後築地の軍艦操練所教授方となり、1860年日米修好通商条約批准のため咸臨丸(620t)で渡米する。この時の艦長が勝、航海長が小野、軍艦奉行(司令官格)は木村摂津守喜毅(1830年生れ)、その従者が福澤諭吉(1835年生れ、中津藩士、木村の蘭学の師)。正使は外國奉行新見豊前守正興で米艦ポーハタン号(2415t)に乗船している。咸臨丸には上記の他中浜万次郎(ジョン万次郎)が通弁として乗り込んでおり、初の日本人による太平洋横断航海助言者である米海軍のジョン・M・ブルック大尉と日本人の間を取り持つ。日本人間の地位・身分・年齢の違い(最年長で操船術・天測に優れる小野、年少だが司令官の木村、艦長と言う船の責任者勝、木村の従者にすぎないが蘭学の師である福澤)、米顧問との関係(航海専門家としての小野対ブルック)、英語を解するのは万次郎一人(小野も福澤もオランダ語しか解さない)、これらの環境が織りなす人間模様が本書の前半を成す。

後半は、帰国後から維新までの多事多忙を描く;目覚ましい昇進(直参(旗本)となり勘定奉行として公儀の財政全般を担当)、国産軍艦建造にかける熱意、江戸湾海防計画の立案・推進、毛利征伐における幕府海軍指揮官としての苦闘、内外騒乱に備えての軍艦調達のための二度目の米国行き(1867年、米商船コロラド号)、それに同行する福澤の身勝手な行動(通弁は務まらぬので翻訳方として売込むがその役目を十分果たせない。書籍購入・送付における公金の不明朗な扱い)、帰国後の混乱(大政奉還、幕府崩壊)、などがそれらだ。維新後、何度か海軍への出仕督促を受けるが、これをすべて断り、民部省の鉄道測量に関する技師長となったところで物語は終わる。

勝と福澤は要所々々で登場、その人物像は藤井の著書引き写しに近く、量的にも山崎の「卡子」と比較にならぬほど多い。小野の伝記小説であることを考えれば彼に関する重複は許されるかも知れないが、実在した他の著名人を、根拠も示さず巷間伝えられてきたものと著しく異なる人間にしてしまうところは、藤井作品と瓜二つ、盗用のそしりはまぬがれない。

これとは別に、本書の書き方は伝統的な小説作法に全く則っていない。かなりの部分が「」付の会話で記されているのだ。それも、すべての人物(勝のべらんめえ調は除き)が「です・ます調」で語るので、時代感覚や臨場感を欠くことおびただしい。また、肝心の天測については計算結果の正否だけでその高度技術に全く触れていない。新聞書評で本書を知ったが、今後この著者の作品を手に取ることはないだろう。

 

蛇足;盗用の有無はともかく、引用元と推察する「小野友五郎の生涯」とその著者が気になった。何をもとにそこに記された勝や福澤像が描かれたのか?先ず著者を当たったが、本書ともう一冊の著書「長崎海軍伝習所」の著者としてしか情報が得られず、経歴等不明だった。しかし、書評(読者投稿)を追っていったところ、1924年生れ、京大物理学科で学び、戦時は海軍中尉で零戦パイロット、戦後原電・関電などに勤務した原子力技術者であることが分かった。つまり、アマチュア歴史家である。そして彼が1962年風間書房刊日米修好通商百年記念行事運営会編「万延元年遣米使節史料集成」に触れている可能性が出てきた。その第5巻は「ジョン・ブルック「横浜日記」「咸臨丸日記」」。咸臨丸の航海前半は荒天続き、勝海舟は船酔いで自室に籠ったままだった。その様子を航海顧問ブルック大尉が書き残したと推察できる。しかし、操船に関わりのない福澤について知ることは少なかったろう。書籍購入・輸送に関する公金流用の件も両著に共通するが、出典を追及することは出来なかった。

 

6)索引 ~の歴史

-たかが索引、されど索引。これだけで本の価値が変わり、読書法が変わる。その800年の歴史を辿るユニークな一冊-

 


ビジネスマン人生終了を翌年3月にひかえた2006年秋、英国行きのために東工大社会人向研究生制度の利用を申請した。研究テーマは「OR(Operations Research;英発祥の応用数理の一分野)の歴史研究」、書類審査通過のち複数の大学教官による面接試験を受けた。そこで問われたことに「“書誌学”に関してどの程度学んでいるか?」があった。歴史研究を課題にしていることからこれを“書史学”と誤解してトンチンカンな回答をしたが、パスすることが出来た。後日これが書誌学であることを知り、不明を恥じるとともに興味を持つようになった。本書講読の動機はそこにある。

95%はノンフィクションという読書傾向から、参考文献・注・索引の充実度は内容同等の重みがある。ネット社会到来の現在“検索”の重要性はGoogleの驚異的な業容拡大を見るまでもなく明らかだ。検索=索引と言っていい。それを歴史的に調査・分析した、ユニークな研究に惹かれた次第である。因みに、本書の索引には、日本語版索引、コンピュータによる自動生成索引、索引家(こんな職業が存在する)による索引(原書の索引)の3種があり、全430頁の内約90頁が当てられている(この他に原注(引用文献を含む)が25頁)。

著者生年は1974年、マンチェスター大学で英文学を修め、ロンドン大学で博士号取得(書物史専攻)、同校講師兼翻訳家。

アルファベット順に何かを整理することはシリア北部で出土した紀元前2000年ころの粘土板に見られるという。その後ギリシャでは学問の世界や本の整理から行政サービス、市場取引まで広くこの手法が適用されている。しかし、ギリシャ文明の後継者とも言える古代ローマでは限定的で、目的や概念別にまとめることが好まれた。この古代ローマ人の嗜好を、著者は美術館における絵画の展示方法で説明する。アルファベット順と時代順やテーマ別あるいは作者別の展示、どちらに違和感があるかと。これが二つの索引タイプ、“用語索引”と“主題索引”の比喩となっている。これで索引と言えは用語索引しか知らない私にとって、主題索引を理解することが出来た。大まかに索引の流れを整理すると、主題索引から用語索引へとなるが、ネット検索アルゴリズムは用語索引より主題索引に近く、電子図書の普及と併せて、復活の兆しと著者は見る。

索引が本格的に導入されるのはグーテンベルクの印刷術発明と期を一にする。つまりおよそ800年前ということになる。書物の大量生産が可能になり、冊子本が巻子本を圧倒するようになってからだ。当時の図書利用の中心は説教と教育、巧みな弁舌を駆使するためには効率的な読書法が求められる(聖書に記された概念の必要個所を直ぐに見つけられる)主題索引が重んじられた理由がここにある。しかし、さらに図書出版が拡大すると宗教家や教師以外に読者層が広がり、題材も広範になって用語索引が主流になっていく。ここで重要なのは頁番号である。ここにもそれなりの発展史があり、15世紀には10%程度だったものが年々増加していく。加えて、目次や章・節の導入によって索引の役割と読書法が変わっていくのだ。

索引だけ読んで内容把握する読書法。当面必要な情報を抽出する図書利用。目次(章・節構造)が導入される以前には、索引が本文の前に配置されており、こんな使い方もあったのだ。索引だけの短編さえ存在したし、索引を意図的に作成、政敵を貶めるような役割を担うこともあった。領土を正確に表すには同じ大きさの地図が必要になる。要点をおさえ省略することで縮尺が可能になり、小さな地図で領土全体を俯瞰できる。本文と索引の関係をこう説かれると理解しやすい。

文字を解さない者向けの絵索引、シャーロック・ホームズ手製の「索引表」、アガサ・クリスティの「ABC(アルファベット順)殺人事件」、小説に索引を付けた事例(話題性を高め、高級感を持たせる)、“リズム”を持った索引(一種の語呂遊び)、圧倒的多数を占める女性索引家と恵まれない処遇など、索引余話も事欠かない。生成AIによる自動索引を本書に試みる一方で、ハッシュタグ(♯)による短絡的な検索・関連付けあるいは索引の誤用や過度な依存を戒め、Googleが深く読む力に悪影響を及ぼすのでなないかと懸念する。

「索引の発展を追っていけば、読書という分野の歴史も見えてくる」とする著者の索引に対する見方は、読書を愛する者に新たな視点を与えてくれた。ただし、確りした調査に基づく硬派作品(読み物風でない)だけに、噛み砕くのにそれなりのエネルギーと時間を要する。

 

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