2008年8月2日土曜日

松之山・蓼科グランドツーリング

<旧友の招き>
 7月21日~23日、昨年英国帰国後入手した車で、久し振りの長距離ドライブを楽しんだ。動機は、長く仕事を伴にしたIさんの招きによるもので、豪雪・地すべり・棚田・秘湯・過疎の地、新潟県松之山出身の彼が法事で帰省するタイミングに合わせて、この旅が実現した。40年近く前、川崎工場建設で同じ組織に属してから、飲み会の席などで彼の生い立ちとその土地について何度か聞かされ、都会育ちの私との大きな違いに惹かれ、一度ユックリ訪ねたいものと思い続けてきた。
 実は、この地を訪れるのは初めてではない。彼のご両親が相次いで天寿全うされた際、その葬儀に出席するため、日帰りおよびとんぼ返りの一泊で此処へ来ている。嘗ては信濃川に沿って走る飯山線の越後鹿渡(しかわたり)が最寄り駅であったが、このときは既に北越急行線(通称北北線;湯沢と直江津を結ぶ)が開通しており、上越新幹線とこの線を利用し、松代駅から迎えの車で20分程度、彼の実家に達することが出来た。
 この北北線の起工は1968年だが、ほぼ全線山岳地帯それも地質・地盤の悪い地域なだけに松代付近のトンネル工事に22年を要し、全線開通は1997年。現地で会った彼の言葉「昔は都心との行き来は、山越え徒歩16キロと夜行列車でした」はこれで解消された。現在この北北線は黒字である。しかしこの黒字はこの線を利用する、富山・金沢方面への急行列車に依るもので、鈍行だけでは経営は成り立たない。長野新幹線が金沢まで延長されると、再びこの地の人々の交通事情が激変する恐れがある。
 今回のドライブ行で考えたことは;①この地の人々が主要交通路としてきた国道353号線(塩沢石打→山崎→越後田沢→松之山→柏崎)と国道117号線(小千谷→越後川口→山崎→津南→野沢→飯山→長野)を出来るだけ長く走ること、②同じ道を走らない、③首都圏以外は高速道路を出来るだけ使わない(状況に依るが)、④初日の宿泊は古い日本旅館で、山菜など地元の食材を堪能する献立のようなので、二日目はペンションかプチホテルで洋食を楽しむこと、それに⑤6月下旬装備したカー・ナビゲーション・システムの機能習熟、である。
 21日早朝6時少し前、曇り空の中横浜横須賀道路から第三京浜へ出て、玉川ICで環八に下り、谷原を経て関越道練馬ICに達した。ここまで1時間少々である。計画では2時間なのでかなり早目になっている。三連休の最終日、既に夏休み入りしており、多少の混雑を予測していたが関越道は順調に流れている。寄居PAで一休み。朝食のおにぎりを食べているグループが二組。まだ“朝めし”の時間帯である。埼玉から群馬にかけての平地は湿気が強く、窓が曇ってくるので間欠ワイパーを生かす。群馬の山岳地帯に入ると併走する車はまばら、相変わらずの曇り空の中を退屈な運転が続く。谷川PAを出ると10Kmを越す直線の関越トンネルに入る。“月夜野で下りて17号線を行くべきだった”との考えが頭を過ぎるが既に遅い。しかし「国境の長い
トンネルを抜けると青空であった」!自宅出発から続いた曇天は谷川連峰で完全に断ち切られていた。今度は暑さが堪える。
 当初の予定では塩沢石打SAに11時到着、ここで昼食をとって関越道を下り予定であったが、10時にここに到達してしまった。そこでそのまま17号を経由して353号線に入ることにする。山崎までの道はアップダウンがあるもののほぼ2車線が確保されており、対向車が少ないこともあってそれほど山岳運転の緊張もなかった。山崎は信濃川に沿って新潟と長野を結ぶ117号線が走っており353号線はこれと交差する形で松之山に向かうが、今回はこれを採らず、翌日走る117号線の感触を掴むため(ガソリンスタンドやコンビニの有無など)津南まで南下、津南から再び353号線に入った。ここからがIさんが高校時代週末徒歩で往復した山岳路である(高校時代かれは十日町に下宿し、週末だけ帰宅する生活であった)。一面の森林地帯、村落らしきものは殆どない。紆余曲折するルート。道幅も1車線プラスでところどころに退避場がある程度。それでも旧道の峠道付近はトンネルで短絡され舗装状態はよく、対向車も少ないのでギヤーをマニュアルに切替え、ワインディングロードの運転を楽しめるほどだ。塩沢ICを出てから約1時間で松之山に達した。最寄り駅越後鹿渡は松之山~塩沢の中間、山崎に近いので、彼が夏でも4時間を要した所を30分で走ったことになる。地方に住むものにとって、道路整備の重要性は都会とは比較にならない。



<松之山温泉にて>  



 自宅から関越道塩沢石打ICまでの走行時間を予定より1時間以上早く短縮したため、松之山到着は11時過ぎだった。Iさんには、2時前には着きたいと言ってあったので3時間も余裕がある。早過ぎる到着は塩沢で読んでいたので、117号線でコンビニを見つけお茶と残っていた握り飯を買い占めてあった。河原か見晴らしのいい所でそれらを摂ることにして、到着していることだけ彼に連絡しようと携帯電話をかけた。かからない!“圏外”マークが出っぱなしである。電源をオン・オフしたり、場所を変えても状況は変わらない。仕方がないので温泉街(と言っても数件の温泉旅館があるだけ)入口にある観光案内図で見つけた大厳寺高原という所まで出かけ木陰で昼食を摂り、少し早いが12時に町へ戻り旅館(凌雲閣)にチェックインした。
 到着一番、携帯の通じないことを宿の主人に問い質した。「ドコモなら通じるはずなんですが?」。私の携帯は昨年渡英前に購入した、海外でも使えるドコモである。“圏外”マークの出た携帯電 話を見せると怪訝な顔をしている。Iさんの実家の電話番号調査を依頼して部屋に案内してもらう。
 昭和初期に建てられた木造三階建てのユニークなこの旅館は、国の有形文化財となっている。近代化リニューアルは最低限に留められ、建物全体も部屋も銘木が飴色に変じて、往時の雰囲気がしっかり残されている。階段や廊下を歩くと、時々ギシギシ音がするのも一興だ。広縁の向こうには谷を隔てて、青々とした数段の棚田が見える。しかしこれは写真やTVなどで紹介されるほどのものではなく、この地の一般的な営農風景とのことである。旅館のたたずまい、サービス、風景すべてが自然体で、過疎地を売り出すような衒いがまるでない。地元出身者、Iさんならではの最高のもてなしである。
 部屋に落ち着いてしばらくすると、廊下の方で何やらガタガタしている。私の名前を呼ぶ声がする。Iさんが長兄の車で訪ねて来てくれたのであった。彼とは最近都内で何度か会っており儀礼的な挨拶は必要ない。開口一番「携帯のこと、話しておかず済みませんでした。私も最近変えたんですよ」 聞けば、この地は長く携帯が通じず最新のドコモでやっと通じるようになったとか。交通事情だけでなく通信事情も都会とは著しい違いがあることを知らされた次第である。そういえば部屋のテレビもBSは鮮明だが地上波(アナログ)は今ひとつ画質が良くなかった。
 この日の夕方帰京する彼とゆっくり話す時間はなかったが、此処へ来る時通った353号線に話がおよぶと、「夏はともかく、冬は大変でした。姉が遭難しかけたことがあるんです」「冬でも物資輸送は必要です。これを仕事にしている人がいて、幸い救われたのですが・・・」冬山登山ではない。北北線開通までは、日常にこんな危険が潜む厳しい生活環境だったのである。しかしIさんを始め此処で接した人たちに、厳しい環境の中で生きてきた者がもつ特有の暗い雰囲気はなく、皆さん実直で穏やか、都会の喧騒を逃れる旅人には何よりの癒しだった。
 泉源の温度が90度近くあり、塩分を含む独特の温泉に浸かった後の夕食は山菜がメインである。無論定番の刺身やてんぷらはあるものの量的に控えめで、てんぷらは一尾のエビ以外は野菜である。山菜料理というと農家の家庭料理のような素朴なものを想像するが、ここの料理は相当手が込んでいる。煮物・酢の物・鍋物・寒天で固めたものなど多彩な料理を地酒「寒中梅」の冷酒で楽しんだ。仕上げは漬物と当地特産「コシヒカリ」のご飯である。実は、Iさんがこの旅館を選んでくれたのは、この山菜料理を賞味させたいとの思いからである。ここの料理長、Tさんは彼の幼馴染であるばかりでなく、山菜の研究家として広く知られた人なのである。
 食後の一休み、夜8時に旅館のマイクロバスが用意され、15分ほど走った小川の辺に蛍見物に出かける。もともと過疎の地、この時間帯全く人出はない。地区内を通る353号線から一車線ぎりぎりの支道に入るとヘッドライトの明かりだけである。少し道幅に余裕があるところで車を止めると、運転手(実は料理長のTさん)が駐車灯を点滅させ、我々に下車を促す。この点滅を仲間と勘違いした蛍が一匹、二匹と集まり出し瞬く間にそこいら中を舞い始める。既に源氏ボタルのシーズンは過ぎ、飛んでいるのは平家ボタルだという。しかしこんなに沢山の蛍が飛び交うのを見るのは、生まれて始めてである。漆黒の中、満天の星とこの蛍の光が渾然一体となりまるで宇宙に漂う気分だ。これだけでも来た甲斐があった。
<棚田ともう一つの国道>
 蛍見物から帰館した際、女将から棚田の写真集数冊を借り、見所に関して情報も得ていた。近隣地区内にも棚田はあるが、写真に出えてくるような見事なものはなさそうで、これを見るにはここから津南に出るもう一本の国道、405号線をしばらく走らなければならない。ただ、この道は冬季閉鎖され、夏期も道路状態が良くないので地元の人はほとんど使わないという。棚田を見たら松之山に戻り、昨日来た353号線を津南に向かうルートにするか?あるいはショートカットになる405号線走破に挑戦するか?
 翌朝は澄み切った青空だった。ルートはまだ決まっていない。チェックアウトの際、再度宿の主人に405号線ルートを確認すると「津南までは棚田を見てまた353に戻るよりは早い。ただ道は狭くカーブが多くて走り難い。全線舗装はされている」との情報を得て、トラブルが起きたときの不安を残しつつ405号線で行くことにする。
 狭い谷に沿う、村(行政上は町だが)のメインストリートをしばらく走り、谷をまたぐ橋を渡って405号線に入る。ところどころに待避所のある一車線。先を行く車は農作業に出かける軽四輪トラック一台。しばらく登りが続く。かなり高度の取れたところで進行方向右側(西斜面)が開け谷に向かって棚田が見えてくる。棚田荒廃が報じられる昨今、ここは見事に手入れされている。更にしばらく上ると峠と思しきところに新しいトンネルがある。これを抜けると今度は左側に東斜面の棚田が見えてくる。自然と人間の力が合わされて作り上げる美しい風景である。有数の地すべり地帯が生んだ英知の結果だが、生産性は見るから悪そうである。いつまでこの情景が保たれるのであろうか?
 棚田地帯を過ぎると道路事情は一変する。舗装状態が悪くなり狭いうえに両側の草が覆いかぶさるような高さである。路肩のガードレールやカーブのミラーが殆どない。シュッシュと草が車体をこする音に緊張感が高まる。対向車が来ないことを祈りながら必死のハンドル操作である。たまに作業小屋のような建物を見かけるが人の気配はない。こんなドライブが30分くらい続いて、飯山線津南駅近くの踏切に達した時の安堵感は、しばし忘れられないだろう。117号線に出て給油をする際このルートのことを話すと、「酷かったでしょう!あの道は中越地震(2004)で傷んで殆ど手入れしていないんですよ」とのこと。こんな国道を知って、道路特別財源(ガソリン税)に地方出身の政治家がこだわる気持ちが少し理解できた。
<カー・ナビゲーション・システム>
 カーナビには関心はあったものの、自分の車に装備する考えは全くなかった。長距離ドライブに出かける時は、ドライブマップやインターネット地図で調べ、独自のナビゲーションシートを作って出かけていた。これを作るプロセスで経路やランドマークを頭に入れ、運転中気が散らないようにした。しかし、今年3月旅先でレンタカーを借りた時「地図はありませんか?」と問うたところ「カーナビが付いています」と言われ、初めて使うことになった。知らない街を二日間(それも一日は雨の中)観光したが、カーナビの有り難さを改めて認識させられた。これに経験のある友人たちの助言も好意的なものが多かった。6月下旬パイオニアのカロッェリアを取り付け、三浦半島や箱根方面をドライブして取扱いの要領を試してきたが、熟知している道筋だけに訓練以上のものではなかった。ここで得た最大のノウハウは、有料道路と立寄り地点の選択だった。一気に遠距離の目的地を探索させると予想もしないルートを選ぶことを知った。
 荒れた国道を脱出して、越後と信濃を結ぶ国道117号線に出たところで、ガソリンを補給し、そこで蓼科へのルートを設定した。飯山まではこの117号線を行けばいいが、そこから小布施、須坂、菅平高原、上田を経て蓼科に至る道は、上信越自動車道を含め多様である。事前に選んだルートは、高速道路を避けて、谷街道(292号線)→大笹街道(403号線)→上州街道(144号線)を行き、東部湯の丸付近で高速と18号線を横切り、県道40号線を南下して白樺高原へ出る、山岳ルートである。いくつかの立寄り地点を入れてルート探査をさせるとほぼ案に従った道筋を選んできたので、以後の運転をこのシステムに任せることにした。混乱が生じ始めたのは飯山のやや手前からである。道路地図で見ると117号線と飯山線はそれほど離れているようには見えないので、飯山地区を通過したいだけなのに立寄り地点として“飯山駅”を入れたことが原因である。それは直ぐ気がついたが、今までの経験で立寄り地点通過後のルートが正しければ、やがて次の立寄り地点にナビゲーションしてくれていたように思っていた。117号線から292号線への分岐は間違いない。もう飯山地区は通り過ぎた。飯山から須坂への一帯は平坦で、決定的なランドマークがないので音声ガイドに従うことにした。走ること20分、見覚えのある道を確り飯山駅へと戻っていた。
 292号線沿いのコンビニで再度ルート設定をし、今度は小布施を経て菅平高原まで難なく到達できた。ここから上州街道を下り上田まで出て、しばらく18号線(中仙道)を上るものと思っていたが、18号線合流手前でカーナビは新ルートを選択してきた。それは18号線に沿う側道であった。この選択理由は今でも分からないがスムーズに東部湯の丸まで導いてくれた。ここで上信越自動車道と18号線を横切り18号線の南側を併走する県道166号線に入る。カーナビは「しばらく道なりに、20Kmくらい行きます」と言い黙ってしまう。しかし数キロ行った所でこの道は佐久方面と白樺高原方面に分岐する。音なしである。白樺高原方面は心なしか道が狭くなる。道標に“40”が現れるのでそのまま進む。さらに数キロ行くとT字路の標識が出てくる。相変わらずカーナビは黙して語らない。標識を見て左折。突然「右です」と言ってくる。“エッ!右?”左折して直ぐに現れた信号を“右へ”と言っているのに気がついた。こんな場合、通常だとT字路の前で「左です。つぎ右です」と言ってくるのだが、この場合なぜか突然目が覚めた感じである。あとで調べてみると、佐久・白樺高原分岐点を本道と思われる佐久方面に進んでも、途中で白樺高原方面に向かう道と交わっている。この辺に彼女が黙り込んでしまった原因があるように思う。
カーナビの利便性と限界を知った旅であった。
<女神湖畔にて>
 最初の晩は鄙びた過疎地の温泉宿での山菜料理。では二晩目は洒落たホテルで洋食にしよう。そんな考えでカード会社から送られてきたガイドブックを見ていると、白樺高原女神湖畔にある小さなホテルが目についた。早速インターネットで利用者の声など調べてみるとなかなか評価が高い。気になるのは“女性向き”というコメントである。ホテルのホームページをみると宿泊プランがいくつかあるが、最高は別棟のレストランでフランス料理のフルコースとある。山岳ドライブを楽しむ自動車旅行はカジュアルな服装で出かけたい。(まさかと思うが)ジャケットとタイ着用なんていわれたら困る。少々グレードを落としたホテル内で摂る洋食付きプランを予約する。
 コロシアム・イン(Inn)・蓼科は、西側に女神湖が広がる白樺高原ペンション村の中心にある。着いたのは2時過ぎ。陽はまだ高い。プチホテルだが、フロント、ロビー、ギャラリー(素人の水彩画展をやっていた)などがある一階のコモンスペースは明るく広々して、感じが良い。案内された部屋は、間際に申し込んだからか、はたまたプランの値段からか、西向きの湖側ではなく、白樺の中にペンションが散見される東側である。しかし、この暑い日差しの中を走ってきたものには、午後の強い陽が差し込まない部屋は当にオアシスである。部屋の広さもリゾートホテルらしく広々していて寛げる。夕食までの時間を、湖畔散策、蓼科山中腹までゴンドラに乗り、そこにある水生植物が繁茂する自然園見物などに費やした。帰ると温泉の引かれた大浴場で一風呂浴びる。
 さて、ディナーである。風呂に出かけるのは部屋からスリッパ。これでいいかな?と思ったが念のためフロントに確認すると、「申し訳ありませんが、襟のあるお召し物とお靴でお願いいたします」とのこと。聞いてよかった。ダイニングは1階奥白樺の植え込みと散歩道が見えるガラス張り、テーブルは6人掛けが一つとあとは4人用が6~7席。やってきたウェーターは白人なので、英語で「何処から?」と聞くと、日本語で「フランスです」と答える。こんどは水を持ってきた外国人に、「インド人?」と聞くと、「フランスです」。肌の黒いウェーターもいる。注文をとりにきたチーフ(これは日本人)に「ずいぶん外国人が働いているんだね」と話しかけると、「私を除きウェーターは全てパリ国立大学の日本語専攻学生で、夏の期間だけ研修生としてここに滞在しております」とのことだった。二杯のワインと蓼科牛の小ステーキ含むフルコースのフランス料理を堪能した。
リゾートホテル(日本だけでなく)にありがちな、ある種の卑しさを全く感じさせない素敵なホテルだった。
<最終日のコース>
 女神湖→メルヘン街道(299号線)→松原湖→佐久甲州街道(141号線)→清里(清泉寮)→長坂IC→中央自動車道→大月JCT→中央自動車道→東富士五湖道路→山中湖→篭坂峠→138号線→御殿場IC→東名高速→横浜町田IC→保土ヶ谷バイパス→横浜横須賀道路→堀口能見台

総走行距離:約810Km

2 件のコメント:

モーガン親父 さんのコメント...

車 買い替えられたのですか?またマニアックな車種ですか? 蓼科に来られたのですねY社をリタイアされた甲斐さんも夏はずうっと蓼科にこもられています 今度ツーリングで来られる際は是非お声かけください  

Hiroshi Madono(眞殿宏) さんのコメント...

ポルシェボクスターです。