2008年9月15日月曜日

滞英記-6(2)

<OR:新しい科学としてのその思想・規範> (原報告は前報6(1)と同時に2007年6月27日発信)
 “経営判断にもっと数理を!”を最終ゴールとする研究のために此処に来ています。その手がかり探査を“ORの起源”に据えているので戦史の研究をやっているとお感じの方も多いようです(もちろん私も戦史研究が好きですし、Mauriceも同じですのでそのような方向に行きがちですが)。この主題のために戦史を離れてMauriceが用意してくれた資料が三つあります。
1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
がそれらです。

 新しい学問が興るとき、それが独自の学問として存立しうるのか?独自性は何か?は根本思想・原理に関わる問題です。ここをクリアー出来ないと既存の学問体系の中に取り込まれてしまいます。私自身の体験で言えば、化学工学会の経営システム特別研究会の立ち上げとその後の存続、それに経営情報学会の統合(これは一会員として見てきただけですが)の二つがあります。
 化学工学会経営システム特別研究会は、工学研究の学会にその前提となる化学企業経営の視点を取り込み既存の工学研究を別の角度から検証し、新たな研究課題を発掘・研究していくことを目指して、当時(20年前)の少壮企業経営者と企業から大学の経営科学研究に転じた大学人中心に興された研究会です。工学系研究者・技術者の学会に社会科学の研究者も加わり、経営戦略・研究開発マネジメント・経営情報システム・環境経営・リスクマネージメントなど“独自”の視点から化学工業・化学工学を捉えてきました。
 経営情報学会の統合問題は、1980年代後半“戦略的経営情報システム(Strategic Information Systems; SIS)”がブームを呼んだ時期、相次いで設立された経営工学系研究者中心とした日本経営情報学会と経済・経営系研究者中心の経営情報研究学会がその後、一本化に向かいそれぞれの存立基盤のすり合わせに苦労しながら、やがて現在の経営情報学会(JASMIN)を誕生させるまでの紆余曲折です。
 両ケースとも社会科学(主として経済・経営学)と自然科学(主として工学)というジャンルの全く異なるものが、協力して独自の学問領域を生み出そうとするところに、思想・原理・規範に関する種々の問題が噴出してきました。そしてこのような問題を議論し合うことにより、研究活動とその成果がしっかりしたものになってきたのです。

 ORの起源時、当然ORが学問として存在していたわけではありません。当時の関係者に与えられた課題は、「強力なドイツ空軍の本土攻撃にどのように対抗するか?」、「ドイツ空軍の爆撃から如何に国民を守るか?」という切実な命題でした。化学者、物理学者、電子工学者、結晶学者、動物学者などが軍事専門家とは異なる角度から、科学的にこのような問題に取り組むプロセスで数理(主として統計学)利用のアイディアと成果が出、やがてORとして結実していくのです。それらの成果を“要素”としてみれば、物理学、電子工学、解剖学、統計学など既存の学問に帰結します。何も独自性は見出せません。違いは、これらを一つの“システム”として捉え、命題に対する対応策の全体効率を飛躍的向上したところにあります。“システム工学”出現のはるか以前、この考え方は一つの独自の科学領域としてぼんやりした姿を見せ始めます。
 戦争中に英国から発したORはアメリカに伝えられ、大戦中に独自の発展を遂げていきます。この段階はあくまでも軍事作戦策定手法の一つで、学問としての認識は利用者自身ありません。戦後イギリスでは戦時中の代表的なOR推進者の多くは本来の科学分野に戻っていきますが、一部は政府の政策立案や公共性の高い企業(石炭・鉄鋼・電量など)でOR手法を広めていきます。この時のメンバーが中心なり、1948年に“ORクラブ”が発足します。これが1953年OR学会(ORS)に転じていくのです。
 以上のような種々の背景を踏まえ、三つの論文の概要をそれに関する私見を含めてご紹介します。

1)‘A festering sore’:the issue of professionalism in the history of the Operational Research Society
 これはORの専門家に“資格付け”を行うことに関する議論の変遷を記したものです。学問としての認知・位置づけが出来る前から戦前の流れを汲むOR専門家が戦後これを広め、彼らが育てた人材も成長してくる中でORの独自専門性を社会に広く認知させる必要があると、ORSのシニアーメンバーの一部が言い出したことに端を発します。この背景に“ORクラブ”が英国社会独特の“クラブ”の性格を持ち、かなり閉鎖的な形で運営されそれがORSの執行部に引き継がれた経緯も影響しているようです。
 一方でこの公的認知によって仕事の“独占化”、“標準化”や“市場支配”につながる恐れがあるという社会批判なども出てきます。ORSが与えるのか?学会は非営利機関ではないか!とORS内での議論も活発化していきます。このような議論は1953年頃から1966年まで形を変えては論じられてきました。
 1967年ORSの中で妥協が図られ、以下のようなカテゴリーAとカテゴリーBの専門家認定基準が示されます。
・カテゴリーA
Qualification:

 ・An honors degree in a relevant subject
 ・Formal training in OR (full or part-time)
 ・Acceptable alternatives(またはこれに代わるもの)
Experience:
 ・Four years’ continuous full-time OR work, including 2 years’ project leadership
・カテゴリーB
 People who were not practitioners but had made a major contribution to the subject, either in academic terms to through managerial or other support


 しかし、その後も、対象者、登録制度(単なる資格付与で無く、専門家としてのビジネスチャンスを与える)の是非、政府機関の仕事への関与などが断続的に議論されます。1973年、当時の検討委員会は理事会にProfessional registerの必要性を答申、1974年‘Fellow of Operational Research(FOR)’としてDepartment of Trade and Industry(DTI)に承認されることになります。FORの資格要件は、目を通した範囲では明示されていませんが“A” grade membership criteriaと書かれています。本件に関する理解がすっきりしないのは、会長が変わると検討方針が変わり、その対として会長になるための政治的な言動が背景にあるようなところが随所にみられます。また、体制批判派の左翼メンバー(当時の少壮学者の主流)の言動とこの会長人事、更には専門家認定が微妙に絡んでいるようです。
 資格付与やその公的認定にこれほどこだわるのは、欧州での専門家がギルド的歴史を背負っているからだろうか?それとも技法の高度化がもたらすやむを得ぬ対応策なのだろうか?ORの起源が、専門分野に拘泥しない科学者の問題に対する自由な発想にあったことを考えると、この問題(専門性高度化と直面する課題解決へのアプローチ)の難しさを改めて認識させられました。そして、これは次の論文につながります。

2)The intellectual journey of Russell Ackoff: from OR apostle to OR apostate
 Russell Ackoff(アメリカ人だが英国とも密接に関係)は戦後初期(60年代まで)のOR研究者・実務者(特に途上国の経済政策)として著名な人です。ORの、学問としての体系・思想作りに積極的に発言してきました。しかし、70年代に入りORの現状に失望し始め、現状打破の提言を活発に行うようになってきます。その核心をなす部分は、“ORをもっと社会的・政治的問題解決に使えるようにしていかなければいけない”(別の表現では“戦術的な課題だけでなく、もっと戦略的課題”)。複雑な社会問題は単純な(解が一つの)手法では扱えない、と言う主張です(同調者の一部には、第二次世界大戦では国家的課題をORで解決してきたのに今はそれが出来ていない、と言う批判もあります)。そのために過度に数理に依存する傾向を高めてきたORの理論的裏づけを改める必要を、強く求めるようになってきます。“高度な数理に依存するORは取り組める問題を解が得られるものに限定する”と数理依存派(OR学の中枢;Modeling Approach;ハードサイエンス)を批判していきます。
 これに同調する動きは、大西洋を挟む米英両国で活発になり、Churchman(Systems Thinking)やCheckland (Soft System Approach)などその後ソフトサイエンス(一言で言えば“コミュニケーションで問題解決を図る”)の学問体系を作り上げていく実力者がAckoffの陣営に加わってきます。また、実務家・企業人にもこれを支持する動きが出てきます。必ずしもこれらの人々と同じ時期・次元では無いものの、“高度な数理依存のOR批判”は他にもあり、ORの始祖とも言えるブラケットもその一人でした。この動きは英国では80年代まで、アメリカでは90年代まで続きました。
 以上のような動き(特に、Ackoff)に注目し、MauriceはOR史家として2003年米英両国の学会の思想・規範闘争も含めまとめたのが本論分です(Journal of the Operational Research Society Vol.54、No.11)。私が指導を受けている木嶋先生は、約20年前ランカスター大でSSAについてChecklandの下で研究されるとともにAckoffとも親しく、日本を代表するソフトサイエンス派と言っていいでしょう。先生のご指導をお願いに大学へお邪魔し、研究の趣旨をお話したとき、「企業における戦術的課題解決への数理応用は充分いきわたっているのではないか?」と質されたのはこのような経緯を踏まえたことだったのです。これに対する私の答えは、「確かに、戦術(日常業務処理)レベルではおっしゃる通りですが、経営トップ・上級管理者がその意思決定に際して(最新の数理理論ではなく、ごくありふれた数理(例えば、データ・マイニングや簡単な最適化)を“使ってみよう”とする姿勢が充分でないと感じています。そんな環境改善のヒントを“ORの起源”に求めたい」と言うことでご了解いただいた経緯があります。また、Checklandは知っていましたが不勉強でAckoffは知りませんでした。この時先生がお話になった逸話が印象に残っています。Ackoffが、待ちが多い(と感じる)エレベータの運行問題解決を求められた時、「ロビーの壁に大きな鏡を貼りなさい」と答えたとか。問題の本質(イライラ感解消)に迫る見事な解決案ですね。

3)Operations research trajectories : The Anglo-American experience from the 1940s to the 1990s
 これは英国に発したORが戦後の英国と米国でどのように展開(特に民生部門の)していったかを、歴史的に整理したレポートです。利用状況の変化のみならず、ORの在り方をめぐる両国の学会を中心とした、思想・規範闘争の歴史も記述されています。その点では、Ackoffに関する前論文と重複する部分もあります。
 構成は5章からなり、第1章は第二次世界大戦中の活動の紹介で著書「Operational Research in War and Peace」と重複。違いは、ドイツやロシア、そして日本に言及(意思決定構造の違い;意思決定者と科学者の関係;ヒトラーは占星術師に頼った)しているところや、前著では触れられていない陸軍におけるOR関連活動(活動場所・部隊が海外中心のため積極利用が図られなかった;高級将校の無関心)を解説しているところにあります。戦時中の効果的な利用とその戦後へのつなぎを意識してまとめている。
 第2章は戦後早期に行われた、英政府関連のOR利用活動とアメリカの動きを解説している。一言で言うと“英国はスロースターターだ”。ここではAckoffがそれに対して素早く反応し、アメリカにおける利用促進に貢献しているとしている。しかし、やっと非軍事部門で利用が始まりながら、キャリア官僚(Civil Servant)の抵抗や“(計画主導に対する)全体主義批判”が起こり、英国での非軍事部門利用展開に急ブレーキがかかる。ごく限られた公共部門;石炭・鉄鋼・電力での適用に集中。ここに優れた専門家が結集する結果になる。その代表者は、Charles Goodeveである。彼が中心になって急速な利用展開が再び始まるが、民間企業での利用は小規模なものに留まる。
 第3章は60年代の利用展開で、この時代英企業経営そのものが米国型経営に変わると供に厳しい競争にさらされる。アメリカ企業はこの時期になると、LPや統計を経営に駆使した新科学経営を推進し、OR利用展開が一気に広がる。この最大の因子は、マネージメントスクールの伝統があり、ORを正規の学問としてカリキュラムに組み込むことが早かったことにある。これに反してイギリスでは、ORを学問として位置づけるのに時間がかかった(初めてこれを教育体系の中に組み込んだのはランカスター大学(1964年設立だとMauriceは言っていた)。また、職業資格としての権威付けにも論争が起こっている(前出)。それを象徴する例として、両国を代表する二人のOR始祖、ブラケットモースの話をここにあげている。ブラッケ;一旦学問(物理学)の世界に帰り62年のウィルソン政権までORと関わらなかった。これに反し、モース;本来は化学者だがその世界を捨ててOR普及に邁進した(出来た)。
 第4章は前論文で紹介した、ORの思想・規範闘争に関する英米の経緯で、ほぼ前論文の内容と同じである。この時期(70年~90年)を“The Crisis of OR”と呼んでいる。ブラケット、モースとも“ORの高度数学化”を批判している(ブラケット;a narrowing in outlook of many operations workers)。その結果、いまやORは戦術問題に留まり、経営上の位置づけを低くしてしまていると。
 第5章はこの研究のまとめである。特に、第4章を意識してまとめられている。思想・規範闘争の根底に、当時の学者の左翼思想があり権威を認めたくない若者の批判精神と相俟って、過度にハードサイエンスを批判する風潮がはびこった面があることは否めない。

 最後にハードサイエンス批判に対する個人的な考えを述べておきます。
●社会的・政治的問題では、確かに“ゴールが一つで無く”数理だけで納得感のある答えは出ない(ソフトサイエンスの必要性)。
●最近は企業経営も社会的責任などが大きな重みを持ち、その点では上記に近い環境が増えている。
●数理が対象問題を制約する(解ける問題だけを扱う)のは確かだが、これは“数理そのものの”が悪いわけではない。
●ソフト論争が起こった当時(60~80年代)に比べITの発達は著しく、経済的にも適用環境は大幅に改善されている(ハードばかりでなく、データ・マイニングや表計算ソフトの機能などを含む)。
●むしろ問題は、OR専門家が問題の本質を理解しているか?理解する場を与えられているか?にある。
●また、本質が掴めたらそれに合ったより分かりやすく簡単な解法が無いかを考え、提言する習慣が必要である(自分の専門技術や最新技術に拘泥しない)。
●もう一つ、経営者・上級管理者が日常的に経営課題に対する仮説(論理・手順・数理に基づく)を作り出し、それ検証する習慣を身に付けているか?がある。経営における数理利用に関しては経営学的素養が欠かせない。

以上

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