2010年1月24日日曜日

決断科学ノート-27(迷走する工場管理システム作り-1;パートナー選びの裏面)

 1972年秋、川崎地区における石油精製・石油化学にまたがる大プロジェクトの終焉が見え始めた時期、私は子会社である東燃石油化学(当時の名称;通称TSK)へ出向を命じられた。出向先は新設される工場長直轄のシステム開発室である。目的は、石油精製・石油化学を一体化した革新的な工場管理システムを、今で言うITを用いて実現すると言うことであった。当時の川崎工場は、石油化学進出のための新工場としてスタートしたので、工場長始め組織はTSK中心に作られていたので、新組織もそこに設けられたわけである。
 唐突に立ち上がったこの工場管理革新構想が、どのような経緯で具体化してきたかについては、現在でもはっきりしない(当時、“工場長の意向”と説明は受けたが)。この真実を知る人は二人、工場長とシステム開発室長である。二人とも東燃入社ながらこの時はTSKの役員であり、管理職であった。“石油精製・石油化学一体管理“が決め手であるので、私も含め東燃側でシステム構築を担当していた者をこれに加えることになったようだ。
 組織発足に当たって開発室長が言ったことは、「これは単なる“生産管理システム”の構築ではなく、工場のあらゆる業務を根本から見直し、革新的な業務システムを作り上げることである、そのために最新の情報技術を調査・研究し積極的に利用を図っていく。効果の狙いを“大幅な省力化”と“一体化管理による原料活用・製品生産の最適化”に置く」と言うことであった。今ならば全社・全工場総力を挙げて取り組むBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)である。苦難することになるプロジェクトは、こうして始まった。
 室長はTSK川崎工場技術部システム技術課長を兼務しており、その課員の一部も兼務となった。室長の下には東燃管理職の副室長が居たが、この人は学究肌で専ら数理技術の実用化に努めていたので、このプロジェクトの実質的な推進役は、TSK側の係長職と私の二人が主に分担することになり、コンピュータ・通信技術関係(メーカーを対象にする業務)は私の担当となった。面白くもあるが、外乱が加わるややこしいポストである。
 室長の業務推進手順は、まず徹底的に最新情報技術(市販されていないものを含む、場合によってこちらから開発提案も行う)を調査し、それらの利用を前提に改善・革新策を考え、そこから経済効果を算出し、最後にプロジェクトの実現方法を描く、と言うものだった。手順としては真っ当なものと言える。
 メーカーの持つ最新技術を引き出す、こちらの要求(夢に近いもの;今ではそれらはほとんど実現している;例えば、LAN通信)の実現性を質す。これは極めて困難な仕事である。長い付き合いのある計測制御機器メーカーはともかく、コンピュータ・メーカーが研究開発段階の先端技術情報を簡単に開示するとは思えない。しかし、室長には既に腹案があった。双務的な機密保持契約を結んでそれを実現する。具体的には、東芝(GE)と山武ハネウェル、富士通と横河電機の2グループをそのパートナーにしようと言うものであった。コンピュータ・メーカー、計測・制御機器メーカーそれぞれ2社は東燃グループに実績のある会社なので、一見この選択・組合せはフェアーなように見える。しかし、この時代突出したコンピュータ・メーカーであるIBMが外れているのは、明らかに不自然であった。
 本社の情報システム部門(この時代プロセス制御用コンピュータを除いて、情報システムに関しては東燃本社がグループ全体を主管していた。このプロジェクトが実現した時に導入されるのは、プロコンではなく汎用コンピュータ、言わば工場の“連隊旗”である)は当然これを問題にしたし、私自身精製工場用に2台のIBMシステム導入に関わってきたので納得できなかった。
 室長の主張は、「これは技術に関する適用可能性スタディであって、メーカーや機種選択ではない」「機密性の高い情報交換をするので、パートナーをそれぞれの分野2社に絞りたい」と言うことであった。ならば、IBMとその他一社(汎用機ではマイノリティの東芝を問題にした)にすべきと主張したが聞き入れてはもらえなかった。
 実はIBMが外されたのには、それに遡るTSKにおけるコンピュータ導入の歴史から来ていたのだ。最初のオンライン・プロセス制御やラボラトリー・オートメーション構築に関してIBMにも声はかけられていた。しかし、IBMは国産メーカーとは異なり、システムの一括受注はしなかった。ハードもソフトも自社標準製品を納め、あとは顧客の責任でシステム作りをしなければならなかった。製品化されていない技術情報開示で顧客の関心をひくことは、独禁法で硬く禁じられていた。これに対して国産メーカーは、アプリケーションを含めた一括請負はするし、標準品の改造も厭わなかった。明らかに、IBMは顧客の要求仕様にそのまま応えられる経営環境には無かったので、受注に至ることはなかったのである(これら先行プロジェクトの受注者は東芝(GE)であった)。
 建前として理屈は通るものの、釈然としないパートナー選びであった。
 二つのグループをパートナーとする調査研究は約一年かけてまとめられるが、その途上やってきたのが1973年10月に発した第一次オイルショックである。全ての前提条件が狂い、計画は全面的見直しを求められ、パートナーにとっても選ばれたことのアドバンテージは失われてしまう。次のステップへの“決断”は取り敢えず先送りされるが、この時のIBM外しは、その後もこのプロジェクトに様々な問題を生起することになっていく。

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