2011年3月10日木曜日

決断科学ノート-61(大転換点TCSプロジェクト-4;グループ内状況-1)

 第一世代プロコンが導入された後のグループ内の動きはどうだったか?ここで述べるのは、第一世代の利用状況ではなく(これも若干は関わるが)、次なるシステムに関する話題である。
 当時グループ内で具体化していた最大のプロジェクトは、和歌山工場に隣接する有田工場建設計画である。第四常圧蒸留装置(申請14万バーレル/日)を中心に、特に当時問題化していた重質油脱硫に重点を置いた計画であったが、新規製油所をもう一つ作るような大規模計画である。既に埋立地の造成は完了。認可は1970年秋におりていたが、ニクソンショック(1971年;為替変動制)などの影響で計画具体化着手は遅れ1972年開始、稼動も当初の予定より1年延期され1974年になっていた。
 ここで使われるプロコンの検討は本社技術部制御システム課が行ったが、この時期私は川崎工場で石油精製・石油化学統合工場管理システム検討チームにいたため(本ノート-27~40参照)、その経緯は全く知らない。ただ結論を聞いたとき、“意外”な感じがしたことは記憶に残っている。石油精製(東燃)の大型プロジェクトで1968年来続いてきた、オールディジタル路線がアナログに戻ったからである。
 構成は、SPCは川崎同様IBM-1800だったが、プラント直結の制御システムはそれまでの集中型DDC、YODICではなく、Foxboroが開発した最新式のSpec-200と言うユニークな電子式アナログ制御システムに決まった。このシステムは従来の1ループづつ制御機構が独立したものではなく、制御部は筐体内に集中的(各ループは独立しているが)に詰められ、無人の部屋に別置、運転員が操作・監視するコンパクトな部分のみ計器室に設置される。従って運転員の動線が短くて済む点、バックアップを不要とする点(つまり経済的)などに利点はあった。またDDCの機能に関してはIBM-1800でもそのロジックは組めたので、良しとしたのかもしれない。しかし、歴史的に見ればデジタル化に向かう流れの中で奇形児の謗りを免れない。
 幸か不幸か1973年の石油危機勃発で有田計画全体が凍結される中で、IBM-1800はモスボールされ他の用途のために保存されたが(後に統合潤滑油製造装置に適用)、Spec-200は横河電機に違約金を払い引き取ってもらい、実働することは無かった。
 Foxboroはその後Spectrumと称するDCSを製品化するのだが、このSpec-200への寄り道がひびき、ハネウェルのTDS-2000に大きく水を開けられ、凋落の因となった。
 もう一つこの時期忘れられないプロコンシステムの概念とも言えるものがある。それは、先に述べた川崎工場全体の工場管理システム構想をまとめているとき目にしたものである。1973年頃(石油危機前)のことだが、ISA(Instrument Society of America;米国自動制御学会)ジャーナルに載った、ハネウェルのダリモンティと言う技術者の“将来の計器室”に関する寄稿である。基本構想は、DCSと高度な情報処理機構を備えた6~8台のCRTを二段に重ねたオペレータズ・コンソール(プラント運転制御・操作卓)から成っていた。彼はこのコンソールによる運転を“コックピットオペレーション(操縦席プラント運転)”と名づけ、その機能を具体的に提示したのである。
 全体工場管理システム検討チームのメンバーだったTSJさんやこの計画を本社側で支えてくれたTKWさんとこの提言を熱い思いで語り合ったことは、確実に第二世代検討につながっていった。
(つづく)

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