2021年3月31日水曜日

今月の本棚-152(2021年3月分)

 

<今月読んだ本>

1)戦略航空偵察(西山邦夫);並木書房

2)地下鉄道(コンソル・ホワイトヘッド);早川書房(文庫)

3)暗殺の幕末維新史(一坂太郎);中央公論新社(新書)

4)和算-江戸の数学文化-(小川束);中央公論新社(選書)

5)地図づくりの現在形(宇根寛);講談社(選書)

6)フォン・ノイマンの哲学(高橋昌一郎);講談社(新書)

 

<愚評昧説>

1)戦略航空偵察

-不断の偵察行動こそ国防の要。米公開資料が明かす平時の戦い-

 


飛行機が軍事に使われ出すのは観測・偵察からである。敵軍勢・艦船の所在や規模、動きの把握、味方の砲撃照準、古今東西戦いは高所を占めたものに有利に展開する。その意味で“航空偵察”は軍事航空の嚆矢と言っていい。しかし、戦争の期間・規模や形態あるいは技術進歩によって、その内容は変化してくる。初期の例は戦闘遂行時に必要な行動であり、爆撃も含めて戦術航空活動であるのに対し、具体的な作戦実施前に国防力・施策を整備するためには、敵兵力全体の所在やその規模を予測したり、生産量を推算したりする、諜報活動と重なる長期の情報収集・分析が求められる。これを行うのが戦略航空偵察である。この使い分けが明確になるのは第二次世界大戦からで、長距離を戦闘機にも勝る速度や高度で飛行する専用の機体が用いられた。米軍の日本爆撃行に先立つ偵察は武装を外したB-29が専ら利用されたが、日本陸軍の100式司令偵察機のような戦史に残る専用名機も存在する。本書は4部構成、第1部は戦略航空偵察の意義と歴史、第2部は冷戦時、第3部は冷戦後そして第4部が最近活動を強めている中国とロシアの動きに対する日米の対応、衛星偵察、無人偵察など直近の戦略航空偵察、を解説する。

著者は1936年生れ、防大卒業後航空自衛隊で情報部門を歩み空将補で退役したその道の専門家である。

第二次大戦までの偵察は、主として写真を中心とするIMINTIMagination INTelligence;映像)だったが、現代はCOMINTCommunication INTelligence;通信)、ELINT(Electronic INTelligence;電子)、両者を合わせたSIGINT(Signal INTelligence)、電磁機器の性能を正確に把握するMAGINTMeAsurment INTelligence)など多様化しており、専用の偵察機が多数開発・運用されている。そしてこれらをデータベース化して一朝有事に備えるのだ。しかし、依然最重要なのはIMINT、最近は無人機(ドローン)や偵察衛星がこれに変わりつつあるが、臨機応変性、手軽さの点で有人偵察機はそれらに優る。その代表が米ロッキード社製のU-2偵察機、1953年に開発開始、1956CIAが運用してから既に半世紀以上経つが未だ現役である。この間米国だけでもより高高度をより早く飛べる偵察機がいく種も制式採用されては消えて行っている。本書の第2部はこのU-2による偵察作戦行動の詳細を紹介するものだが、第1部、第3部でも頻繁に登場する。何と言っても白昼堂々(仮装)敵国の上空を飛行し重要情報を数多集めた実績とトラブルの件数は他の偵察機とは比較にならないからだ。本書の骨格を成すのは米国で2013年機密解除された資料に基づくので、19605月ソ連中央アジアでパワーズ飛行士搭乗機が撃墜され、米ソ首脳会談をぶち壊した事件を始め、知られざるU-2運用実態が初めて明らかになる。とにかくかくも頻繁に領空侵犯されてはソ連も黙っていられないだろう、そんな気になるほどだ。英国から、アラスカから、グリーンランドから、トルコから、パキスタンから(パワーズの飛行)、台湾から(中共原爆開発)、そして厚木からU-2が発進している。またU-2とは関係ないが1951年~56年(日本独立前)日本周辺だけで米偵察機がソ連に依り9機も撃墜されている。根底にあるのは米国のソ連に対する核ミサイルギャップへの恐怖である(現実にはギャップは存在しなかった)。

現代の戦略航空偵察は各国とも基本的に領空侵犯を避け、示威(挑発)行動と先に述べてSIGINTMAGINTが中心となっている。特に、著者が本書で注意を喚起するのは中国空軍の最近の行動である。しかし、肝心のこれに対する我が国の対応は見えてこない。片鱗を窺わせるのは19839月大韓航空機の樺太沖撃墜事件に関し航空自衛隊警戒レーダーが航跡を補足しており、これが国連安保理に提出され公開されたため能力の一端が明らかになってしまったとあがきにあるくらいだ。自衛隊員は退役しても自衛隊法第59条で何も語れないのである。

 

2)地下鉄道

-黒人奴隷少女は必死に逃げる。ジョージア→南北カロライナ→テネシー→インディアナ、そしてさらに北へ-

 


米国は初めて出かけた外国、爾来訪問回数・累積滞在期間も最多・最長の国である。そしてこの国の問題にしばしば人種が絡むこともよく承知している。直近ではトランプ政権下におけるBLMBlack Life Matter)活動がその一つだ。従って、米国人と付き合う時、人種問題には細心の注意を払ってきたが、残念ながら黒人に親しい友人知人は出来なかったから、彼等の本音を語り合う機会は皆無だった。ただ一度だけ親しくしていた白人から、身近な黒人奴隷の話を聞かされギョッとしたことがある。2000年秋、ブッシュ(子)とゴアが大統領選挙を戦った直後、友人夫妻にワシントンDC南東部、アレクサンドリア市に近いマウント・バーノンに在るジョージ・ワシントンの生家を案内してもらった。ワシントン家がそこで大規模なプランテーションを営んできた歴史的な場所である。母屋の見学の後周辺の納屋や厩、それに使用人(黒人)の住居などを巡っていた時、友人が「奴隷も決して悲惨な生活を送っていたわけではないことが分かるだろう」「自分の実家にも同じような、施設が在ったんだ」と語りだした。あとにも先にも初めて聞いた奴隷肯定論である。この時彼はIBMの経営陣の一角を占め、ダレス空港に近い高級住宅地に小さな城とも言える豪邸を構えていたが、元もとはノースカロライナの農家出身、さらに先祖を辿れば英国から移民した典型的なWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)一族である。「まだこんな米国人が居るんだ!」と彼の人柄を密かに改める結果になった。本書の時代は南北戦争少し前、ジョージアの農場から逃亡する黒人奴隷少女をテーマにした小説、ノースカロライナが重要な舞台となる。

コーラは145歳(奴隷は誕生日など不明)奴隷3代目である。祖母はアフリカで部落ごと拉致されその間何度も持ち主が変わり、亭主も売られたり病死したりで3人、その祖母もすでに亡く、残った子供はコーラの母メイベルのみ。この母はコーラが10歳くらいの時逃亡を図り、現在も指名手配中だが見つかっていない。祖母の代から住んでいるのはジョージア州、仕事は綿摘みである。ここでコーラは主人にムチ打たれる少年をかばったために、厳しい日々が待ち受けている。ある日北部の個人に所有され読み書きのできる若い奴隷、シーザーがコーラに農園脱出を持ちかける。既に北部は奴隷解放が実現しているから向かうのは北だ(それでも持ち主に雇われた奴隷ハンターは追ってくるが)。ジョージアの北はサウスカロライナ、その北はノースカロライナ。各州によって奴隷の扱いは異なる。受け入れ施設や厚生施設、職業訓練所が完備したサウスカロライナは一見居心地の良い安全な場所に思えたが、恐ろしい仕組みが隠されている。それを察知した二人はここから逃げよとするがシーザーは捉えられ、殺されてしまう。何とか危機をかわしたコーラはノースカロライナに逃げのびるが、ここは逃亡奴隷を匿った白人一家が公衆の面前でなぶり殺しに会うような州、数カ月ある白人の家の天井裏に隠れていたコーラはメイドに密告され、奴隷ハンターの手に渡され、ジョージアに連れ戻されるのだが、ハンターは別の逃亡奴隷の情報を耳にしてテネシーを経由するルートを採る。ここでコーラは再び救援組織に救われインディアナに在る黒人セッツルメントに落ち着きくのだが、ここにも危機が迫る。本書はこのような黒人奴隷逃亡サスペンスなのだが、気になるのは“地下鉄道”である。この時代地下鉄など存在しないから、てっきり“地下に潜る”のような隠密移動救援組織(これは現実に在った)の存在を予想した。しかし、これがフィクションとして取り上げられ、種々の地下鉄道(蒸気機関車駆動から手押しポンプ型トロッコまで)がコーラの逃避行を助けるところがミソなのだ。

私の読む小説はほとんど軍事サスペンス物、このような社会史物は珍しい。しかし、書店に平積みになった本書を見た時、この“地下鉄道”に惹かれ手に取ると帯に“ピュリッツアー賞受賞”とあり、訳者あとがきに目を通すと本書(2017年度)のあと2020年に2度目のピュリッツァー賞受賞とあり、「これは並みの作家ではない」と購入を決したわけである。しかも著者は黒人(1969年生れ)、本書で語られる当時の黒人奴隷に関する描写は、その時々・場所々々で現実にあったこと(地下鉄道を除いて)を丹念に調べて書き上げていると解説にある。当時の人種間の関係はおそらくこのようだったのであろう。ノースカロライナ出身の友人は私より2歳下、実家の奴隷用の住居内部はその跡を留めず、往時のノースカロライナの話など語り継ぐ者も居なかったに相違ない。エンターテインメント小説として一級だが、訳がどうも引っかかる。難しい漢字が多いのだ。躊躇(ためら)ったくらいはまあ許せるが、蹲(うずくま)った、咥(くわ)えた、躓(つまづ)いた、眩(くら)ます、俯(うつむ)いて、凭(もた)れて、取り縋(すが)って、など皆正しいが、次から次へとこんな普段見慣れない漢字を使われると、そこに気を取られて、ストーリにのめり込んでいけないのだ。一種の欠陥翻訳、編集者の力量が疑われる。

 

3)暗殺の幕末維新史

-どんな革命にも血の決算書がある。幕末維新100件を超す暗殺・テロ事件の暗部を探る-

 


長く権力を保持してきた政治勢力を倒し、単なる権力者の交代ではなく、社会構造をも抜本的に変えた政変は、世界史的にはフランス革命、ロシア革命がその代表だろうし、我が国では明治維新がそれに匹敵する。ただ三者が政治的に安定するまでの犠牲者の数は大幅に差があり、フランス革命では数万から数十万人、ロシア革命では1930年代のスターリンに依る大粛清まで含めると百万人単位が処刑やテロで葬られているのに対し、維新の場合いくつかの歴史的な出来事、例えば桜田門外の変、坂本龍馬刺殺、大久保利通の暗殺くらいがよく知られているものの、大規模な殺戮が伴ったと言う印象はない。本書はその少ないと思われている幕末維新テロ・暗殺事件を洗い出し、ペリー来航から王政復古までの十数年間で百件を超すことを明らかにし、それらの内容を詳しく述べるものである。

初期の幕末暗殺・テロ動機で一番多いのは攘夷、根本にあるのは「神州を外国人に踏みにじられてはならない」と言う神国思想だが、具体的には外国人を入れない・交流しないことである。桜田門外の変(1860年;安政7年)も井伊大老が勅許を得ず外交条約に調印したことにある。従ってテロの対象は国内の開国派に向けられるのだが、生麦事件(1862年;文久2年)でよく知られる外国人に対するテロも極めて多かったことは、本書で初めて知った。ペルリ来航を知った吉田松陰は1854年「僕微力を以て膺懲を謀る。而して才なく略なく、百事瓦解す」「一日憤然として墨使を切らんとす」とバリバリの攘夷論者、のちに近代文明の差異に気がつき密航を企てることなど全く窺えない。外国人犠牲者第一号は1859年(安政6年)フランス領事代理の召使であった清国人が横浜で武士2名に斬り殺されている。この時召使は洋服を着てブーツを履いていたことから西洋人と間違えられたらしい。1860年(万延元年)2月これも横浜でオランダ船長2名がずたずたに斬られて死亡する事件が起こっている。幕府は報復を恐れメキシコドル(多分銀貨)でそれぞれの未亡人に25千ドルの賠償金を払うことになる。この後にも似たような殺傷事件が頻発するのだが、何故か犯人がほとんど挙がっていない。あまり厳しくやると今度はその矛先が幕府に向かうことを恐れてのことらしい。

外国人を直接ターゲットにした暗殺は、やがて桜田門外の変同様開国を進める幕閣に向かう。ここには単なる攘夷論だけでなく尊王を唱える討幕運動が加味される。1862年(文久2年)坂下門で老中安藤政信が襲われるのは、名目的には水戸藩の攘夷過激派取り締まりを強化したことに依るが、うしろに外様の長州藩が絡んでいる。水戸・薩摩・土佐の動きに遅れまいとする思惑だ。排外、討幕、王政復古、反討幕、おのおの活動の主導権争い、大小の暗殺・テロが、京都で江戸で外人居留地で地方で、繰り広げられる。

尊王攘夷・王政復と言う維新の大義名分とは異なる暗殺・テロ動機に、著者が頻繁に使う“言路洞開”がある。幕末の流行語だったようで「世論を政治に反映する」の意である。議会主義などいまだ知られていない当時、下級武士である志士たちは自分たちの志が上に達しないのは中間権力者のせいだと解釈し、その排除を謀る目的で暗殺が行われるのである。維新後の暗殺はそれに乗り遅れた者たちの不満の爆発、佐賀の乱や西南の役で武力弾圧を断行した大久保利通暗殺はその典型、維新政府に不平を持つ下級武士の6名の犯行である。ここでは大久保の他に、木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、三条実美も斬奸状に名を連ねていた。

本書は動機・規模さまざま暗殺事件を、その背景、関係者(特に実行者)、事件後の顛末などを詳しく解説するが、最もユニークな点は被害者・加害者の顕彰の有無・階位でその後を追うことである。幕末開国論者や外国人を襲った犯人のかなりが後に(明治~大正期)靖国神社に祀られ、官位を授かっているのに対し、明治政府の編む官製歴史で悪役とされた井伊直弼を始め討たれた者の多くが無冠であり、銅像の建立さえ忌避されていることである(直弼は結果的に横浜におさまったが)。近代化=欧米化であった当時を考えると、攘夷より尊王が上と言うことなのだろうか?いささか解せないところである。

著者は大学で歴史学を学び、地方歴史館の学芸員などを務める在野の歴史学者のようである。

 

4)和算-江戸の数学文化-

-近世西欧数学から遮断された中で育まれた独自数学文化、高度代数学・幾何学から遊びまで、ユニークな和算の世界を分かり易く解説-

 


国の統治には、歴から始まり租庸調(税)、治山治水、城郭の建設や街づくり、それに商売まで数学は不可欠である。江戸だけでなく奈良・平安まで遡って、気軽に読めそうな、日本の数学史をたどれる本を探しているが、依然現れない。唯一昭和15年学士会編纂の「明治前の日本数学史」が発刊されており、関孝和生誕300年を記念して2008年岩波から復刻版が出ているが、何と55万円である。しかし、これも少し調べてみると第一巻を除けば“関孝和以降”である。つまり、関孝和の系譜をたどればおおよその日本数学史が分かると考え、たまたま広告で目にした本書を取り寄せてみた。正解であった。

著者は数学史には二つの視点があると言う。一つは“着想の歴史”。画期的な解法の発見・創造である。例えば、円周率を導き出す過程を追うような行為である。我が国でも、円に内接する多角体からそれを推算する方式が考案され、関孝和とその流派が加速計算法を考案し、精度を向上させている。もう一つの着眼点は“数学文化史”と言う視点である。数学と社会の関係史と言ってもいい。どのような人が数学を研究し、普及させ、数学がいかなる役割を果たしてきたか、を辿るものである。本書は副題の-江戸の数学文化-に見るように“数学文化史”に重点を置くものである。従って、難解な数学理論は一切出てこない。

我が国の数学知識が中国渡来の文献類に依ることは先ず間違いなさそうだが、それを時々の必要性に合わせて昇華あるいは消化し利用できるような独自の書物は、極めて用途が限られたものが少数あるだけだ(主として珠算指導書)。この事情が一変するのは吉田光由(みつよし;15891673)の著した「塵劫(じんこう)記」(1627年刊)が世に出てからである。これも中国明代の「算法統宗」を参考にしているのだが、日常生活に役立つ例題を多数含んでいたことから、明治期まで海賊版を含め200種超える類書が刊行され、固有の書物と言うより初等数学の代名詞になるほどだった。別の見方をすればそれを必要とし理解できる人々が大勢居たと言うことである。ここで留意したいのは、これが実用一点張りでなく開平(平方根)・開立(立方根)計算などの若干高度な、数学的好奇心を掻き立てるような例題を含んでいたことである。

我が国の数学史はどうしても関孝和に収斂する。本書10章の内ほぼ半分は“関流(反関流を含む)”数学に割かれている。幾何学(円周率や三角法)、代数学(微積分)の分野で、この流派が果たした役割は大きい。中国同様我が国もアルファベットやアラビア数字それに演算記号がない中で、数学を理解発展させるためには、それなりの創意工夫の才が無くては難しい。「解法の着想は二の次」としながらも、その一端に触れ、その後の“関流”隆盛につながることを具体的に示す。初歩的代数学の一例;2次方程式a2bx3cx²を算木(木の棒)と漢字で表現するには、Ⅰ(縦棒1本)の横に漢字“甲”を書き(aに相当)次いでⅡ/(縦棒2本の上に斜めにもう1本棒を重ねる;この斜め棒はマイナスの意)と乙(b)最後にⅢと丙(c)(縦棒3本)、を並べ文字を表記する。

手法以上に割かれるのが、関孝和を始め後継者の建部賢弘らの社会活動や研究組織に関する説明、関も建部も藩や幕府の用人で特に牧野は吉宗の下で重職を担っている。つまり、元からの学者ではなく、彼らにとって数学は趣味・教養に過ぎないのだ。そして重要なのが研究組織、これは剣術、茶道、華道など同様流派・家元組織を踏襲しているのである(数学の場合世襲はなないが)。大方の活動は同門同程度の仲間で問題を出し合い自己研鑽に励み、時に高弟や師匠の指導を受け“段位”を上げていく方式である。またここで学べるのは武士だけでなく、ある程度ゆとりのある農民や商人も可能であった。著者はこのように幅広い人材が集まった背景として江戸時代初期からの寺子屋教育があったことを注視する。実用一点張りのソロバンの外縁に数学が在り、知的好奇心が広がっていくのだ。この道楽・趣味・教養としての数学の発展がどうやら最もユニークな我が国数学史と言えるようだ。その極めつけは神社・仏閣に奉納されている“算額”、難問が解けた謝意、これから挑戦する課題解決への決意、を問題と解法を記した額を奉納するのだ。現存(1994年)するのは884枚、最古のものは1683年に栃木県佐野市星宮神社に収められた額、江戸時代には2500くらい在ったと推定される。当に独自数学文化、最近では海外の研究者が現れたり、算額する学者が居たりする。

我が国の数学は、古代からの経緯を見れば国家統治のための実用数学であった中国の影響を受けたものの(渡来のものは実務担当下級官吏用の教科書類が多い)、江戸期には専ら民間・個人の遊びの要素が強まり、問題を解くことより作ることに傾斜し、その問題は圧倒的に平面幾何学が多く、代数はそれを解くための手段に過ぎない位置付けだった。また、速く解くことが目的ではなく、時間がかかる難問ほど楽しい問題と考えられていたふしがある。これが一変するのが明治維新、ここで和算が消えていく。

維新以前の数学に関する抽象概念は現代人より高かったのではないか?(換算のような簡単ではあるが日常的な計算量が圧倒的に多かった)、解くこと中心の(苦痛を伴う)現代数学教育は江戸に学ぶところがあるのではない?(問題考案することの意義)、著者は読者に熟慮を要する難問を投げかける。

著者は1954年生れ、四日市大学環境情報学部教授(学術博士)。専門は数学史。

 

5)地図づくりの現在形

150年の歴史を持つ近代国土基本地図、デジタル化は地図づくりの現場を如何に変えたか?国土地理院のベテラン地図職人が手の内公開-

 


旅と地図は不可分、書架の一画は世界地図、第二次世界大戦歴史地図から日本地図、日本各地の道路地図、我が家由来が辿れる国土地理院発行15万播州赤穂までそれらで占められている。地図ばかりでなく鉄道・道路地図、地形に関する読み物も多い。その中で、地図への興味を一段とかき立てた本に堀淳一著「地図のたのしみ」(1972年エッセイストクラブ賞受賞)がある。日本のみならず世界の景勝地を地図でたどり、その景観を想像しながら旅を進める内容である。ヨーロッパ各国の地図はカラー印刷され、それは美しい。特に、ユングフラウの15万(スイス製)はまるで上空の飛行機から眺めるような立体感がある。「こんな素晴らしい地図はどのように作成されるのだろう」と思ったが、見方・読み方の解説はあっても作り方は記されていなかった。これは他の本も同じで、専ら利用面から書かれており、手軽に読める地図作成の本は意外とないものである。そんな時本書の出版を広告で知り読んでみることになった。実に面白い!

著者は1958年生れ、1981年東大理学部地理学科卒業後建設省(現国土交通省)国土地理院入省、爾来停年退官する2019年まで地図づくり一筋の専門家(鉛筆とぎから最新の航空宇宙技術利用まで経験、地図職人を自称している)、それだけに国家的見地からの視点と最新技術紹介が見事にマッチングして、多様化する現代の地図作成とその利用状況がよく理解できる。カラー図版が多く、解説は平易、中学生くらいから専門家(地図利用ソフト開発、地域・都市開発、防災など)まで幅広い層が読んで楽しく、役立つ本である。

日本地図と言えば伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」、一部天文観測はあったものの大半海岸沿いの歩行測地、それでも当時として驚くほどの精度だった。現代につながる地図作製は1869年(明治2年)民部官庶務司戸籍地図掛が設けられたところからスタート、これが1871年(明治4年)兵部省参謀局間諜隊に移され、担当部門の名称は変わるものの、終戦まで参謀本部の主管となり、戦後は建設省国土地理院に引き継がれる。この間方式は英国式→フランス式→ドイツ式と変わる。「地図は国家なり」、三角測量の原点(港区麻布台)、水準点(現国会議事堂敷地内、当時の参謀本部所在地)の決定から始まり、明治初期には国家予算の1300が投入されて、本格的な地図作成が展開される。我々になじみ深い15万が全国を覆うのは1924年(大正13年)。現在国土地理院が提供する旗艦地図(基本図)は12.5万、本格的作成は戦後空中撮影が出来るようになってから、枚数は4千枚に達する。三角点の数は約10万。ここまではアナログ地図である。

“現在形”は、この12.5万のデジタル化と利用形態の激変への対応である。航空写真を出発点とする地図づくりはアナログ、デジタル共通で以下の工程になる。①対空標識の設置(旧来は三角点だったが現在はそれに電子基準点が加わる。これらの位置はGNSS;全球測位衛星システムで経度・緯度を特定、それ以前の基準点より精度が向上している)、②空中写真の撮影(フィルムカメラ→デジカメ)、③写真測量と図化(写真を読み取り3次元データ化、図化機を使って地図原版サイズの紙に描く。アナログ時代は図化機の先端に装着する鉛筆をとがらせるのが一仕事)、④編集(取捨選択、地図記号の書き込みなど)、⑤製図(例えば白黒線路表示)・印刷(地図用特殊印刷機)。アナログ時代はほとんど人間の手作業(名人芸)だったが、デジタル化で大幅に省力化され作業スピードも速くなっている。この部分の説明が本書の肝である。カーナビ地図の更新は2年に一度程度だが、アナログ方式ではいくら航空写真ベースでこれは無理。さらに大改革は4000枚の地図をシームレスでつないで操作できることである。なお、12.5万以下の詳細図面として市町村が整備する12500の地図があり、これと連動することでカーナビのような細かな用途に対応できるようになっている。これもデジタル化によってもたらされた。さらに産業技術総合研究所地質総合調査センターや環境省の「現存植生図」、海上保安庁管轄の海図など他省庁の地図システムとも連携でき、統合利用環境が飛躍的に向上した。

上記は12.5万標準地図中心の話だが、特殊用途(土地の成り立ち、利用経緯、断層の有無など)の地図についても直近の地震や水害など実例をベースに解説される。これらは国土地理院のホームページからアクセスできるようになっており、標準図を含めそのアクセス方法が明記されている。

デジタル化された地図利用が飛躍的に伸びている反面、紙の地図の販売数が最盛期の120に激減し、特に山登りに携行しない人が増えたと案じて、過度なデジタル依存(スマホで済ます)の行く末に懸念を示している。これは地図だけの問題ではなく、アナログ、デジタル両時代を知る者として共感を覚えるところである。

 

6)フォン・ノイマンの哲学

-純粋数学者からスタートし、ゲーム理論、量子論、コンピュータ開発でいつも先頭に在り、ついに原爆開発者となった天才科学者、彼の行動哲学は如何なるものであったか?-

 


少年天才棋士藤井聡太が高校卒業目前にして中退した。プロ棋士に専念するためである。この世界の実力は段位やタイトルで分かるからこれで良いのだろう。モーツァルトに代表されるように、芸術家の力量・才能も素人に比較的分かり易く、“天才”がしばしば出現する。一方ビジネスの世界ではスティーブ・ジョブスやビル・ゲイツを誰も“天才”と呼ばないように、言葉の存在そのものが一般的でない。政治の世界も同様だ。一番難しいのが最も多く居る学者のそれである。若くしてノーベル賞のような著名な賞を受賞したり、超有名大学の教授職に就いたりすると、賞やタイトルで一応納得するが、その天才度は実は分からないままだ。結局“天才”が認知されるのは、限りなくその天才に近い次席天才たちが「彼は天才だ」と語ったときそれが固まると見ていい。そんな系譜の中に、飛び級や複数資格の早期取得で早くからその才能を認められる者の存在がある。本書の主人公フォン・ノイマンは、ギムナジウム(中高一貫校)時代既に先端高等数学をものにし、大学在学時には高度な研究論文で注目された、この種の天才である。大学卒業時(22歳)、スイス連邦工科大学から応用化学の学士号とブダペスト大学大学院から数学の博士号を同時に与えられている。

英米人の居る席で「コンピュータの発案者は誰か?」と問うと、英国人は「アラン・チューリング」、米国人は「フォン・ノイマン」と答える、IT業界でよく知られたジョークがある。両者ともほぼ同時期、現在の“プログラム内蔵方式”のコンピュータ・アーキテクチャーを発案しわけだから、回答はいずれも正解である。IT分野に身を置いてきた者として両人への関心は高かったから関連図書は何冊か読んでいる。中でもジョージ・ダイソン著「チューリングの聖堂」は両人の生い立ちからコンピュータ開発までを並走させるので、ジョーク伝記版の趣を持つ。ただ、コンピュータに傾注し過ぎ、ノイマンに関する多彩な活動は印象が薄まり、他のノイマン物同様不満の残るとところだ。「コンピュータ以外のノイマンを知りたい」、これが動機で本書を手にした。

ノイマンは1903年ブダペストで豊かなドイツ系ユダヤ人の子として生まれる。“フォン”が付くのは本来の貴族ではないが、父が経済界に功ありと認められ皇帝(オーストリア・ハンガリー帝国)から与えられたことに依る。幼時から抜群の記憶力や計算力を持ち、数ケタの数の掛け算を暗算で行ったり、電話帳1ページ分を即記憶したりして大人たちを驚かす。また、高教育ユダヤ人家庭の常で、早期多言語教育を施され、就学以前に、ハンガリー語、仏語、伊語、英語それにギリシャ語・ラテン語を習得している。ギムナジウムは10歳入学だが数学は飛びぬけており、最終学年17歳クラスを学ぶが、これも難なく理解、大学教授による特別個人授業を授けられる。卒業の全国統一試験でもトップ、ベルリン大学応用化学科とブダペスト大学大学院数学科に受け入れられ、先の学士号・博士号同時取得はこの経緯に依る。応用化学を選んだのは数学では食べていけないと考えたこと、スイス連邦大学への転校は、第一次世界大戦で敗れたドイツの混乱を避けるためである。ブダペスト大学博士論文「集合論」が世界的数学者ヒルベルトの注目を惹き、ゲッチンゲン大学に招聘され、数学と数理物理学を研究、終了後1927年(24歳)ベルリン大学数学科講師に就く。この時期ゲッチンゲン大学の研究仲間だったユージン・ウィグナーと数理物理学の論文を共同で何編か発表している(ノイマン・ウィグナー理論;量子論)。ウィグナーが1963年ノーベル物理学賞を受賞したことから、もしノイマンが生きていたら同時受賞だっただろう言われる。また、1929年には応用数学分野の「ゲーム理論」の発表もしており、これも後にノーベル経済学賞対象になったことから、その可能性もあった。

ノイマンが米国に移るのは1930年。ユダヤ人排斥の動きは始まっているが、動機はベルリン大学専任教授就任の時期が空きポストの関係でかなり先と読み、プリンストン大学数学科教授への招聘を受け入れたからである。さらに1933年プリンストン高等研究所(大学とは別組織)が発足すると5人(その一人にアインシュタインが居る)の上級教授(終身)として招かれ、その後多くの研究機関・政府機関と関係するものの、ここが活動の中心となる。1937年市民権獲得、1939年第二次世界大戦勃発。

ノイマンが学界の外へ知名度を上げていくのはこの戦争からである。就いた役職は、陸軍兵器局弾道研究所諮問委員、国防研究委員会(大統領直轄)委員、戦争省科学研究開発庁調査員、海軍兵器局常勤顧問そして原爆開発を担うロスアラモス国立研究所員、すべて兼務である。コンピュータ神話は弾道研究所から始まり戦後プリンストン高等研究所で完成させたMANIACまでの活動から生まれ、量子論に発する核分裂研究の名声は、ロスアラモスにおける原爆設計で爆縮型(分裂物質を多面体の中に詰め、周辺に起爆剤を配し、空中で爆発させることで威力を高める)を提言・実現させたことから“原爆開発父”の一人として定まる。なお、投下場所を検討する標的委員会のメンバーでもあり、皇居のある東京は外し、日本文化を壊滅させたときの効果を狙って京都を強力に推すが、スチムソン陸軍長官がそれを退ける。

戦後冷戦勃発に際し対ソ先制攻撃を提唱、水爆開発推進にも積極的であった。アイゼンハワー大統領は肥大化する軍事関連委員会の整理をノイマンに託し、戦時の功績を含め1956年合衆国自由勲章を授けている。19572月癌により死去(54歳)、核開発の現場に頻繁に立ち会っていたことがその因とする説もある。

純粋数学者としてスタートしながら、多種多様な応用研究にも能力を展開・発揮、国家運営にまで影響力を及ぼした実績は “天才”と呼ぶにふさわしい生涯と言えよう。

彼の哲学は、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだとする「科学優先主義」、目的達成のためなら何でもありの「非人道主義」、この世界に普遍的な責任や道徳など存在しない「虚無主義」、「人間のふりした悪魔」と言うのが著者の結論である。私には日本人の反戦思想・被害者意識におもねる牽強付会ととれた。ただ、フォン・ノイマンを知る、と言う点で読んでよかった本である。

著者は1959年生れ、米国ミシガン大学大学院で哲学研究を修めた國學院大學教授、専門は論理学、科学哲学。

 

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