2021年6月6日日曜日

活字中毒者の妄言-17


書斎と本棚


初めて個室が与えられたのは高校入学時、家族6人で8畳・6畳・四畳半(唯一の洋間)・玄関踏み込み在った2畳の4間の狭い家に住んでいたが、その一つである四畳半が使えるようになった。長子で男一人であったことからの特別扱いである。大学時代は一人住まいの祖母宅で暮らし、ここでも6畳の和室をあてがわれ、就職してからは寮暮らしだが、ここも個室だった。つまりかなり早い時期からそれなりに“私の城”を構えていたわけである。ただし勉強部屋や書斎のイメージよりは家族からの干渉を避ける隠れ場所のようなものである。本を集め出すのは就職してからだから、それまではまともな本棚もなかった。寮は木造だが個室の独立性は保たれていた。しかし、衣服や寝具それに暖房器具なども収めなければならないので“本と暮らす”雰囲気ではなかった。「いつか専用書斎を」の夢が沸き出したのはこの頃からである。


両親が家を新築する際、そこに同居する可能性も考え、一間私用の部屋を作ってもらった。大工が嫌がるほど作り付け書棚を設け、転勤の際寮生活で誂えた本立てもここに運び込んだが、その部屋を使ったのは結婚までの1年程度、遠距離通勤(松戸-川崎)と残業の連続で、家でゆっくり読書をする時間などなかった。私が出たあとこの部屋は父の書斎となった。結婚後10年間は社宅暮らし、3人の子供が小さいうちは何とか一室を確保し、ここにスティールと合板の組立本棚を設置して書斎風に設えたが、理想とは程遠いものだった。


1980年三浦半島の久里浜に自分の家を持った。この地を選んだのは愛読していた團伊玖磨の随筆「パイプのけむり」シリーズの影響が大きい。彼は当初は葉山のちに横須賀市秋谷に住んでおり、その自然描写に惹かれたのである。「今度こそお気に入りの書斎を」と意気込んだが、成長する子供の個室と予算の関係でそれは叶わず、本の収容は納戸の隣スペースに、読書と調べ物は客間(8畳和室)で行うことで我慢せざるを得なくなった。PCは和机の上、新規購入書や必要な書物(辞書など)は床の間に積み上げる、結局これで16年過ごすことになる。1981年本社勤務、通勤路線を京急からJRに変え久里浜-東京間は約1時間半、往復で3時間、いずれの駅も座れるので、読書と仮眠にその時間を使う。車両が第二の書斎兼寝室に変じたわけである。


1996年現在の地に移った。最大の理由は娘たちの通学・通勤である。久里浜は都心から遠く、自然条件は申し分ないが、私も本社勤務になってからは通勤(特に帰途)に苦痛を感じていた。だからと言って勝手の分かる三浦半島・京急沿線から離れがたい。都心の主要な繁華街・オフィス街に1時間以内で行けることを前提に得たんだのがここ金沢文庫である。何と言っても地名の“文庫”が気に入った。家の間取りは久里浜とほとんど同様、前の家で不便・不満だったところを手直しした程度である。書斎の位置は以前長男の部屋だった所、彼は既に家を出ていたから、そこを使うことにしたわけである。違いは収納部を一切設けず、東側に幅2間床から天井までの作り付け本棚を設えたことである。この“壁一面本棚”が私の書斎に対する必須条件、やっと実現したわけである。西側には社宅時代から使ってきた組立式本棚を1間幅で、これも床から天井まで立ち上げている。そして西窓側の残る1間をPCや辞書類を収めた作業机が占めている。北側のドアーを除く空間は趣味で作ったプラモデル飛行機を飾るガラス戸棚があり、南側の窓からは鎌倉に至るハイキングコースが通る小山が目前に見える。格別凝った書斎ではないが、この空間で過ごす時間が最も心地よいひと時である。


本を大量に持つと他人の書斎や勉強部屋が大いに気になる。蔵書家・愛読家について書かれたものを随分読んできたし、機会があれば友人・知人のそれを見せてもらったりもした。日本人の場合、来客に屋内を案内する習慣はないが、欧米人はこちらが頼まなくても見せてくれる。書斎は英語で、DenStudyLibraryと中学や高校で教えられたが、チャーチルの実家ブレナム宮殿の本棚+図書室は当にLibrary。ここで夜一人調べ物をしている姿を想像するとスリラー映画の一コマになりそうな巨大空間だった。普通の家では概ねDenが使われ、言わばあるじの隠れ部屋の雰囲気、書物で埋まると言うよりは、CDを聴いたり蒐集したミニュチュア・カーを眺めたりと一人ぼんやり過ごす憩いの場所だ。「My roomを見てくれ」と招じ入れられたイタリア人SEの部屋には何台もの高性能ワークステーション(IBM汎用機と等価)が置かれ、世界中のユーザーをここからサポートしおり、仕事場以外の何物でもなかった。しかし、本物も保有するフェラーリのプラモデルが何気なく配され、ここが彼の城であることが窺えた。もう一人のイタリアの友人(電気技術者)はアパート住まい、上階の居住域に書斎は無かったが、一階に各戸のガレージとかなり広い物置部屋があり、この物置部屋を書斎風に設え、3千冊を超える蔵書をスティール製本棚に保管、作業机やPCもここに収まっていた。


日本では私自身来客を自分の部屋に案内することは滅多になく、こちらが訪問先で書斎や仕事場を見学する機会もほとんどない。蔵書家・愛読家個人の書斎を覗いてみたい。こんな好奇心を満たしてくれた本が3冊ある。ダイヤモンド社が1996年(我が家の建築前)に発刊した「本棚が見たい!」全3巻がそれだ。3巻で有名人72人の書斎・本棚が写真入りで解説される。作家(小説、ノンフィクション、劇作家、脚本家、随筆家)、評論家、読書家の著名人(俳優、落語家)、大学の研究者、音楽・演劇・映画人(作曲家、演出家、監督)、マスコミ人など多士済々。先ず2頁を使った本棚のカラー写真、記事は別にまとめてあり、著者(川本武;編集者)が対談して、書籍・読書に関する考え方、書籍の整理方法を聞き出し、4頁でまとめる。何と言っても強烈な印象は本棚の写真。トップバッターの筒井康隆は整然と全集等が並びどの棚も重ね積みなど全くない。しかし、二番目の内藤陳(俳優、冒険小説の評論では第1級(本人は評論家を否定)、故人)で驚かされる。読書量は毎日2冊、月60冊、書棚に収まり切れない本が鴨居の高さまで幾重にも積み重なり、地震が来れば書籍流必至、その中でタバコを手にした写真は、ある種鬼気迫る趣だ。「「超」整理法」の野口悠紀雄一橋大教授(当時)は有名な「押し出しフィリング」が写され、一見整理が行き届いているように見えるが、対談では「本を捨てる人の気が知れない」と難じながら「本の整理は絶望的」と断言、「やっぱりそうなんだ」と妙に納得、安堵感を持つ。

私の本棚は重ね置きの混合状態、終活整理の必要を感じつつほとんど手つかずのまま、逝ったあと家族はここをどうするだろうと案じながら、それでもこの部屋で本を読みながら終われたらと念じている。

 

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